【ソウル=細川幸太郎】ロッテグループ創業者の辛格浩(シン・ギョクホ、日本名は重光武雄)名誉会長が19日、ソウル市内の病院で老衰のため死去した。9 98歳だった。� 業界 : 食品製造. 重光 武雄(しげみつ たけお、1921年11月3日 - 2020年1月19日)は、日本の実業家。日本統治時代の朝鮮慶尚南道蔚山郡(現・蔚山広域市)出身の在日韓国人一世で、本名は辛 格浩(読み: シン・キョクホ、またはシン・キョッコ、朝: 신격호、英語: Shin Kyuk-ho)。ロッテグループ会長、日本プロ野球の千葉ロッテマリーンズと韓国プロ野球のロッテ・ジャイアンツのオーナーを務めた。韓国第5位のロッテグループ財閥の元総帥。 詳しくはこちら, 【ソウル=細川幸太郎】ロッテグループ創業者の辛格浩(シン・ギョクホ、日本名は重光武雄)名誉会長が19日、ソウル市内の病院で老衰のため死去した。98歳だった。太平洋戦争中に日本に渡り、戦後に製菓事業を始めた。その後流通やサービスなどに事業領域を広げ、日韓で売上高10兆円の巨大財閥を築いた。晩年には息子同士の後継争いが表面化した。, 韓国南東部の蔚山市生まれ。日本に転居し切削油の製作所で事業を開始した。終戦後の進駐軍が配るチューインガムの人気を見てガムの製造に乗り出しロッテ製菓を設立した。日本で稼いだ資金で日韓国交正常化後に高度経済成長期に入った韓国に投資。百貨店やホテル、スーパー、化学、建設など幅広い事業を手掛けて韓国財閥5位の資産規模を誇るロッテグループの躍進を主導した。, ただ晩年は不遇だった。2人の息子が後継を巡って泥仕合を繰り広げ、日韓にまたがってグループ全体の経営の混乱を招いた。自身もグループの経営不正事件に絡み業務上横領と背任の罪に問われた。2019年10月には大法院(最高裁)が懲役3年の判決を下し、健康状態を考慮して執行停止していた。, オープンイノベーションで生み出す 変化を乗り切る未来の働き方(東京海上日動火災保険). 関連企業・業界. ロッテ創業者死す。ひたむきな努力と幸運が奏でた華麗なるマーチ . 有料会員の方のみご利用になれます。保存した記事はスマホやタブレットでもご覧いただけます。, 企業での記事共有や会議資料への転載・複製、注文印刷などをご希望の方は、リンク先をご覧ください。 弊球団オーナー(ロッテグループ創業者)重光武雄が、2020年(令和2年)1月19日(日)午後4時29分、韓国ソウル市内病院にて永眠いたしました。生前のご厚誼に深く感謝するとともに、謹んでご連絡申し上げます。氏名重光武雄(しげみつたけお)生年 ツイート . 電子版トップ [pr]トレンドウオッチ. 国際. 1954年 サッカーw杯予選出場の韓国チームの支援活動. 重光武雄 ロッテグループ 創業者 ロッテ 製菓. はてブ . 1969年 東京ロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)のスポンサーになる。 1972年 ロッテオリオンズのオーナーに就任 0. 1948 ロッテ設立 代表取締役社長に就任. 2020.01.21. 0. 4. by 『キムチパワー』 シェア . 一覧. Pocket . 「最後の大企業創業一世代辛格浩ロッテ名誉会長他界」(朝鮮日報)、「83円持って日本に渡った文学青年、カバンひとつ持って帰国し韓国ロッテ設立」(中央日報)、「83円でスタート、ロッテの神話を描いた流通の… 1967年 韓国ロッテ製菓設立. 株式会社ロッテ(LOTTE Co., Ltd.)は東京都新宿区に本社が在る菓子メーカー。重光武雄(辛格浩)が1948年(昭和23年)に日本で創業。創業以来、世界各地でグループを展開し、重光の出身地である韓国で積極的に投資して大規模に事業しているロッテグループ#韓国ロッテグループに詳述がある。プロ野球チームとして日本で千葉ロッテマリーンズ、韓国でロッテ・ジャイアンツを有する。非上場企業。みどり会の会員企業で三和グループに属している 。 1月19日、定番の人気お菓子でも有名な「ロッテ」創業者の辛格浩(シン・ギョクホ)氏が、98歳の生涯に幕を閉じました。今回の無料メルマガ『キムチパワー』では韓国在住歴31年の日本人著者が、韓国が誇る世界的起業家の辛格浩氏がいかにして戦前戦後の困難を乗り越え、たった一代で世界と対峙できる大企業を育てたのか、その軌跡を辿り称えるとともに、辛氏と日本との関係についても記しています。, 辛格浩(シン・ギョクホ)と聞いてもピンとくる人はいないはずだ。ロッテといったらどうだろうか。ロッテを知らない日本の人はいないはず。そう、あの有名な「お口の恋人」ロッテを作った人がこの辛格浩氏だ。辛格浩氏の特集がいろいろの新聞でやられている。朝鮮日報を土台としてご紹介したい。, 辛格浩氏は、日本の植民地支配期だった1922年慶尚南道蔚山三南面ドゥンキリというところで、貧農の家の5男5女のうち長男として生まれた。彼は蔚山(ウルサン)農業高校を卒業して豚の飼育をはじめたけれど、もっと勉強することを願った。1941年親戚のお兄さんが用意してくれた路銭83円を持って日本に留学し早稲田大学で化学を勉強することになる。会社員の平均月給は当時だいたい80円から100円程度だったという。30万円くらい持って行ったということか。彼の日本での名前は重光武雄だ。, 青年重光武雄(=シン・ギョクホ)は、日本で昼は牛乳と新聞を配達し、夜は大学に通いながら学業に励んだ。偶然に出会った日本人の事業家花光さんという人が彼を高く評価し、事業資金として5万円を貸してくれる。辛格浩はこの金で1944年東京周辺に潤滑油工場を建てる。しかし工場は米軍の爆撃を受けて稼動もできないまま焼けてしまう。5万円はそっくり借金として残る。, 1945年8月、日本は無条件降伏、韓国は植民地からの解放。このとき、日本にいた韓国人が大挙して母国に帰国したが、辛格浩は「私を信じてお金を貸してくれた人を置いて行くことはできない」と、牛乳配達をしながら工事現場で肉体労働をやり、事業の元手を調達した。彼は当時、雨が降っても雪が降っても、配達時間を破ったことがないという。配達時間が正確だといううわさが広まり、辛青年のところに牛乳配達の注文がどっと舞い込んでくることになる。, こうして貯めたお金を全部まとめて1946年、東京に「ひかり特殊化学研究所」という工場を建てて石鹸クリームなどを作って売った。石鹸は飛ぶように売れ、1年半後には借金を全部返すことができた。辛青年は自分を信じ続けてくれた花光氏に借りた資金をすべて返したうえ、感謝の気持ちの表れとして家まで1軒買ってあげた。, 以降、飛ぶ鳥も落とす勢いの辛格浩社長は、1948年には資本金100万円、従業員10人の会社を設立して「ロッテ」の看板を初めて掲げた。ガム会社の(株)ロッテを創業、「ロッテ神話」の幕開けとなったわけである。会社名の「ロッテ」は、ゲーテの「若きヴェルテルの悲しみ」に出てくる女主人公「シャルロッテ」から取ったものだ。一時、作家の夢をもっていた辛格浩氏が、ロッテがシャルロッテのように愛される企業になることを願ったことから名づけられたという。後年、辛格浩氏は「ロッテ」というブランド名を考えたことがわたしの最大の収穫ということばも残している。, ロッテは、ガムに続いてチョコレート、キャンデー、ビスケットなど事業領域を広げ、日本屈指の総合製菓企業としての地位を固めてゆくことになる。1959年にはロッテ商事、1961年ロッテ不動産、1967年ロッテアド、1968年ロッテ物産、株式会社ファミリーなど事業を多角化し、日本の10大企業にまで成長した。, 日本での事業が定着すると、辛格浩氏は故国韓国に目を向けることになる。辛格浩名誉会長(晩年の地位)は、1966年韓日国交正常化によって投資の道が開かれると、事業を韓国へと拡張して、1966年にはロッテアルミニウムを、1967年にはロッテ製菓を設立した。ロッテはジューシーフレッシュ、スピアミント、バタークッキーなどヒット商品を次々と打ち出して急速に成長してゆく。, 飲料・氷菓会社を買収する一方、観光・流通・建設・石油化学事業にも進出した。1973年にはソウル小公洞(ソゴンドン)に地下3階、地上38階規模のロッテホテルを竣工した。1974年と1977年には七星(チルソン)ハンミ飲料と三綱産業をそれぞれ買収して、ロッテチルソン飲料やロッテサムガン(現ロッテフード)に社名を変更した。1979年にはロッテホテルの隣にロッテデパートをオープンし流通業にも進出した。平和(ピョンファ)建業社(現ロッテ建設)と湖南(ホナム)石油化学(現ロッテケミカル)を買収したのもこの頃だ。以降1980年には韓国富士フィルム、1982年にはロッテキヤノン・テホン企画などを設立し事業領域をされに広げてゆく。, ロッテグループは1980年代の高度成長期にタイミングよく乗り、相次ぐ合併・買収を通じて、今日、韓国内の財界第5位の企業になっている。辛格浩名誉会長は、このような高速成長を背景に、1990年、米国経済専門誌のフォーブスが選定した世界の億万長者番付の第九位に上がったこともある。, キムチパワービジネス・成功中国・韓国・北朝鮮有名企業の「失敗と成功」目からウロコ!, コロナ不況を読み解くには?株式投資のプロが選んだ「厳選推奨銘柄」を無料で利用する方法, 今後のマーケット動向はどうなる?無料で使える株式投資のプロ直伝「厳選推奨銘柄」とは, 年末年始の17連休案は「空気読めてなさすぎ?」菅内閣の盲点とは【2020-2021】. 4.