諦めなかったからこそ如浄禅師という師に出逢うことのできた、道元禅師のように。, 「我逢人」の「人」とは「本物」のこと。

地方の大学生のshinto(シント)です。
なんとも味わい深い。, 佐藤 隆定 逢うとは、親しみが湧くような「特別な出逢い」を意味している。.

自分の中でしっかりつながった。 しかし実際には、男女間に限定して使用される漢字というわけではない。 誰かから答えを教えてもらおうとするのではなく、本物の師を見つけ、自分自身で答えを見つけなければ、と。, そのためには本場中国で仏教を学ぶ必要があると考え、海を渡る決心をする。 疑問の答えも見つかった。 我逢人(がほうじん)【禅語】 人と会うことからすべてが始まる。 人と人との出逢いの尊さを 三文字で表した言葉。 人と逢うことから全てが始まる。 心と心の出逢い、物と物との出逢い、 人と物との出逢い、出逢いこそ命。 人は自分と違う領域を持って Copyright (C) 2014 名言集 All Rights Reserved. GREEN APPLEの良さを共有したり、逆にみんなにもMrs. 意志が自然に出てきましたね。 一番だなって思うようになって。

Copyright © CyberAgent, Inc. All Rights Reserved. というよりも、 人との出逢いによって、人生は大きく変貌する可能性を秘めている。 そんなふうに感じることのできる相手との出逢いを指して、我逢人という。, 人との出逢いから私たちは多くのことを学ぶ。 そして仏教を学び修行を重ねるなかで、「仏とは何か」「修行とは何か」という疑問を抱くようになる。, 道元禅師は疑問を解決するために多くの師に教えを仰いだ。

(山中綾華), "いろいろ考えずに そして、新住職である如浄禅師と運命的な出逢いを果たすことになる。, 天童山で初めて如浄禅師と出逢ったその時の思いを、道元禅師は日本に帰国後、次のように述懐している。, この眼で本物の師を見つけた。 ミセスのためになるっていうのが、 (さとう・りゅうじょう) ちゃんとひとりひとりが © 2020 ひなメモ|内向型とエネルギーの関係性 All rights reserved. そして二十四歳の時、道元禅師は日本を旅立った。, 現代のような安心安全の船などない。渡航は命がけだった。 このまま日本で答えを求めていては駄目だ。 2020 All Rights Reserved. そんなふうに振り返ることのできる出来事が、誰の身にも1つや2つあるのではないか。, 人と「あう」という言葉に漢字を当てはめるとすれば、普通なら「会う」となる。 禅・曹洞宗僧侶、エッセイスト 「人との出逢いが人生を変える」といった意味合いを持つ『我逢人(がほうじん)』という禅語。, 大事にしたい人ができたり、尊敬する人ができたり、一緒の時間を楽しみたい人ができたり。, 「あの人が人と関わる楽しさを教えてくれた」「あの人が仕事の楽しさを教えてくれた」「あの人が人生を楽しむための術を教えてくれた」, など、考え方や感じ方が変わり、人生の転機となり、その後の人生が大きく変わった、なんて経験はありませんか?, そういうあまり関わりたくない人との出逢いによっても人生を大きく変えられたりしますよね?, 「あの人と出逢ったがために今のように卑屈になってしまった」「あの人と出逢ったがために仕事に対する恐怖が芽生えた」「あの人と出逢ったがために人生は絶望以外の何者でもなくなった」などなど。, そのような出逢いに感じ、人生の歯車が狂ってしまって人生が大きく変わった、なんてこともあるかもしれません。, 恨んでしまうような出逢いをしてしまうと、「あの出逢いは最悪だった。あんな出逢いはなかったことにしたい」なんて思ってしまうことでしょう。, 当然ながらエネルギーが低い状態で悪い出逢いのことを考えてもイライラしたりつらい気持ちになるだけで良いことのように考ようとするだけでもエネルギーが漏れていってしまうはずです。, なので、エネルギー高まってきたら「あの人と出逢ったことは私にとってどんな意味があったのか?」なんて一度考えてみて欲しいのです。, これによりエネルギーが大きく奪われ、感情的になりやすく、自分を責めてしまいがちになるのも仕方ありません。, それはそのような環境にいたことで「あのときのことを考えたらなんでもやれる気がする」などとエネルギーを高めることができたりするからです。, また、「あの人達と出逢ったことで人の気持ちをよく考えるようになった」と思うことができ、思いやりがあふれる人になったりもします。, そんな経験をしたからこそ「自分と同じ経験はさせたくない!」と考え、そのときの経験をもとに手に職をつけることもできます。, 反面教師として成長するとも言えますし、そのときのつらい環境を乗り越えたからこそ飛躍的に成長したとも言えます。, そのように見方を変えることで悪い出会いだった最悪と言えるはずの出来事がかけがえのない出逢いとなり、その出逢いに感謝するかもしれません。, ひどいことをされたのに感謝するというのはおかしなことかもしれませんが、その出逢いによって自分を良い方向に導いてくれたのであれば自然と感謝したくなると思うんですよ。, その人自身に感謝というよりも、そういう出逢いをしたことで人生の転機となったことに感謝、といった方が正しいかと思いますが。, そのように良い出逢いも悪い出逢いも見方次第で人生を良い方向に大きく変えてくれます。, 悪い出逢いをすると、エネルギーが大きく下がってしまうため悪い方向に物事を考えてしまうようになり、良い方向に人生が変わるとは思いづらいと思います。, ですが、「この出逢いはいずれ良い方向に導いてくれるものだ」と考えておくと、その見方がカチッとハマるときが出てきます。, そのようにカチッとハマるときがきたら悪い出逢いだと思っていたものがかけがえのない出逢いだったと思えるときが来るでしょう。, 逆に「これは悪い出逢い。最悪の出逢いだ」とずっと考えていたら、かけがえのない出逢いだったと思えるときが来ることはありません。, なので、半信半疑でも「この出会いがかけがえのない出会いだと思える日が来るのかもなぁ」と思っておいた方が良いと思いませんか?, これによって、「人との出会いは成長させてくれるかけがえのないもの」と感じ取ることができるでしょう。, 「若い時の苦労は買ってでもせよ」なんていうことわざがありますが、苦労することによって得られるものもあります。, ずっとうまくいってきた人は一回の失敗で挫折してしまいやすい、なんて言われていますが、トントン拍子にいってしまうと刺激の耐性が弱く、挫折しやすくなってしまうのは容易に想像できるかと思います。, 「この悪い出逢いはこれからの人生で必要なことを教えてくれるはず! 一体何を教えてくれるのかな?」なんて苦労を楽しめるようになれたら理想です。, もちろん、それはあくまで理想ではありますが、「そういう心構えを持とう!」というのは大切なことだと思います。, 悪い出逢いだからこそ学べることもあるので、悪い出逢いを悪役にしすぎず、その人とは仲良くせずとも悪い出逢いという概念とは仲良くしていきたいものですね。, 【禅語とエネルギー】時時勤払拭(じじにつとめてふっしきせよ):常に心の汚れを払おう, 【禅語とエネルギー】諸行無常(しょぎょうむじょう):すべてのものは絶えず変化している, 【禅語】『遍界不曾蔵』:物事をありのままに見つめるためにも、まずは客観的に物事を見つめてエネルギーを高い状態で維持できるようにしよう, 【禅語とエネルギー】行雲流水(こううんりゅうすい):物事に執着せず、自然の流れに身を任せよう, 「人の研究」が趣味の内向型。 偶然と必然がちょうどよく交じる座標に、出逢いというものはあるのだと思う。, 出逢いに必要なのは一歩を踏み出すこと。 そのことに気付くきっかけとなったのは、師との出逢いにほかならない。, 出逢いというのは偶然かもしれないが、待っているだけでは訪れないものでもある。

誰かが必ず上にいた。

しかし、それでも答えは得られなかった。, 中国へ渡って二年が経過した。 あなたの周囲の人、いろんな人がいると思います。 大好きな人も、イマイチ合わない人も、うっとうしい人も(笑) そんな今日の禅語。 [我逢人] (がほうじん) 人と人との出会いの尊さを表した言葉。 人は人によって、成長していく。 今月より投稿させていただきます。拓光と申します。よろしくお願いします。皆さんとこのような出会いの機会を設けていただき大変嬉しく思います。本日は初回ということもあり「出会い」について話をさせていただきます。, 皆さんは出会いを意味する「我逢人」という言葉をご存知でしょうか。この言葉は私のお寺の先代の住職も大変好まれている言葉で、私は先代の住職よりこの言葉に出会わせていただきました。我、人に逢うなりと書いて「我逢人」といいます。, これは曹洞宗をお開きになられた道元禅師様が、正法眼蔵という書物の中で、師匠である如淨禅師様と出会ったことを書いたときに使った言葉で、人と出会うこと、つまり御縁の有り難さを説いています。, 御縁というのは何とも不思議なものではないでしょうか。道元禅師様はあの広い中国大陸をご自身の足で歩いて渡り、如淨禅師様と出会いました。その後、道元禅師様は日本へと戻り、曹洞宗をお開きになられました。その教えは何代にも渡って師匠から弟子、師匠から弟子へと引き継がれて、今現在こうして私もお寺の住職をさせていただいています。もしかしたらこれまでの一人でも出会いがなければ曹洞宗は絶えていたかもしれません。そして私が今こうして皆さんの前でブログを更新していることもなかったかもしれません。, これは当たり前のことのように感じますが、よく考えてみると奇跡ともいえる大変なことではないでしょうか。そんな人との出会いの素晴らしさを端的に表した言葉が「我逢人」。私は僧侶になる前よりこの言葉を知っていましたが、その意味を本当に深く噛み締めたのは僧侶となり修行を始めてからのことでした。, お寺の住職になるためには修行道場で、ある期間修行をしなければいけません。そして、そこに入ると家族といえども、めったに会うことが出来ません。そのようなこともあり、私は修行に入る前に5年ぶりに祖母の元へと挨拶に参りました。祖母は私が僧侶になるということを誰よりも喜んでいてくれました。祖母とは久しぶりの再会ということもあり、照れてあまり話しをすることが出来ませんでした。その時、私は「立派に修行を終え、立派な僧侶になった時にまた沢山話をしよう」と軽く考え帰路につきました。しかし、修行を始めてわずか1ヶ月後、祖母は急性の病によってこの世を去りました。祖母の死の知らせを聞いたとき、私はすぐにあの時「また今度でいいか」と考えたことを思い出しました。そして「もっと話せばよかった」と後悔しました。もうそれは後悔という言葉では言い表せないほどの悲しみでした。, この祖母の死によって、出会いがあれば別れがあり、どんなに親しい相手でもいつか必ず別れなければならないこと、だからこそ人と出会うこと、その人と一緒にいられることはとても有り難いことなのだと、私は気付きました。そしてその時間は永遠ではないということを身をもって体験しました。祖母は私に、人と人との出会いや繋がりがどんなに有り難く、素晴らしいことだったのかということを、その死を通して教えてくれたのです。, 私は今現在、沢山の方々が支えてくださっているおかげで住職として日々精進することが出来ています。これからもこの御縁に感謝をし、今後も自らの体験をもって御檀家様や一般の方々やこのブログを見てくださっている皆さんに「我逢人」の尊さを伝えていきたいと思います。, tabisuruzensouさんは、はてなブログを使っています。あなたもはてなブログをはじめてみませんか?, Powered by Hatena Blog