フランクリン・ルーズベルト 米大統領に翻弄された日本と米国民 "Roosevelt, 315, Roosevelt, Franklin Delano, Jr., (1914 – 1988), “Carmine De Sapio, Political Kingmaker and Last Tammany Hall Boss, Dies at 95”, http://www.nytimes.com/2004/07/28/nyregion/carmine-de-sapio-political-kingmaker-and-last-tammany-hall-boss-dies-at-95.html?pagewanted=all&src=pm, Biographical Directory of the United States Congress, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=フランクリン・デラノ・ルーズベルト・ジュニア&oldid=77909021, European-African-Middle Eastern Campaign Medal with four battle stars, Asiatic-Pacific Campaign Medal with eight battle stars. と述べた[5]。, 第二次世界大戦中は海軍の下級士官として従軍、カサブランカ沖海戦での勇敢な働きで勲章を受章した。父親の要請を受け、兄エリオット・ルーズベルトと一緒にウィンストン・チャーチル首相と1941年8月の大西洋会談、1943年1月のカサブランカ会談に参加した。また、テヘラン会談の前にもアフリカで父と会っている。, 大西洋会談後、ニューファンドランド島アルジェンシャ(英語版)から、チャーチルと共に海を渡り、新たにアメリカが占領したレイキャヴィークの地に降り立った。それはイングランド、スコットランド、ウェールズ、アメリカの連帯を象徴するものであった[6]。, そして駆逐艦メイラントの副長に就任し、1944年3月1日、少佐に昇進。7月18日には護衛駆逐艦ウルヴァート・M・ムーアの艦長となった。ウルヴァート・M・ムーアは太平洋で活動し、2機の日本軍機を撃墜、1隻の潜水艦を撃沈した。1945年9月2日に日本が降伏文書に正式に調印した際には、艦と共に東京湾にいた。驚異的な働きから "Big Moose" として知られ[7]、12個の従軍星章、ブロンズスターメダル、パープルハート章、そして、戦火の中において重傷を負った兵士を安全地帯へ移した勇敢さを評価され、シルバースターを授与された。, 戦後、いくつかのニューヨークの法律事務所で勤めた。ニューヨークのルーズベルト・アンド・フレイデン (Roosevelt and Freiden) 法律事務所のシニアパートナーだった。彼のドミニカ共和国の独裁者ラファエル・トルヒーヨの表現は論争を引き起こし、1961年にトルヒーヨの暗殺前に取り消した。, 政治家としても活動した。1946年にはハリー・S・トルーマン大統領の下で公民権に関する大統領委員会委員を務めた。1948年、兄弟と共にドワイト・D・アイゼンハワー支持を明確にし、民主党に反旗を翻した。しかし、兄エリオットとは異なり反共産主義的な立場を取り、コラムニストのスチュワート・オールソップによると、兄と親ソ活動について喧嘩となり、マスコミへ兄に関する有害な情報を漏らした[8]。, 1949年、ニューヨーク自由党からアメリカ合衆国下院特別選挙で議員に選出された。民主党員として1950年と1952年に再選された。1949年5月17日から1955年1月3日までニューヨーク州第20選挙区代表であった。, 名門の出ではあるが、民主党の指導部からは不評であった。兄ジェームズが下院議員になると、サム・レイバーン議長はジェームズに "not waste our time like your brother did." 朝の情報番組「グッド!モーニング」-ことば検定プラス- テレビ朝日系列で放送される朝の情報番組「グッド... 天皇陛下がライフワークで研究されているテーマは? 現代のアメリカにおいても尊敬の対象とされているフランクリン・ルーズベルトは、1933年から1945年までの12年間にわたってアメリカ第32代大統領を務めた人物です。現在でこそ大統領の任期は最大8年という憲法がありますが、世界恐慌や第二次世界大戦などの有事を理由に4,422日も大統領であり続けました。 今回は、アメリカ国内ではエイブラハム・リンカーンと並んで最も偉大な大統領のひとりとして絶大な人気を誇る一 … He had good ideas and the power of persuasion, but he did not put them to good use. フランクリン・ルーズベルトの死を受けて1945年に副大統領から大統領に昇格した。白人至上主義者団体クー・クラックス・クラン(kkk)への加入歴もあるが 、全米有色人種地位向上協会で演説を行い 、公民権運動を支援した初めての大統領である。 【2020年最新】パンのお店総選挙 岡山・香川の本当に人気のパン店ランキング -岡山・備前エリア-, 40代からのお肌の悩みにおすすめ-ハリ・ツヤ・潤い- スキンケア「HARURA(ハルラ) コンセントレートカプセル」, 【べたべた手汗がすっきり】手汗制汗剤のベストセレクション3選【フレナーラ・テサラン・オドレミン】, アメリカの歴代大統領で最も人気が高いのは、ワシントンやリンカーンですが、最も長く大統領を務めたのは、第32代大統領のフランクリン・ルーズベルトです。. 白熱電球の改良や蓄音機の実用化など、化学研究の分野でその名を知らぬものはいないというほどの偉人であるトーマス・エジソン。今回はそんな彼の生い立ちと知っておきたい事実、さらにいくつかの名言を英語と日本語の両方で紹介してい... 世界で初めて空を飛んだ2人の兄弟。いつか鳥のように大空を飛んでみたい! 昔そんな想いを一度は抱いたことはないでしょうか? 2人はどうして大空を飛ぶことができたのか。そんな素朴な疑問にお答えできる4冊をご紹介したいと思い... キング牧師(マーティン・ルーサー・キング)といえば、黒人の人種差別の歴史における重要人物。「私には夢がある」という演説を行った人物としても、有名です。彼の人生、暗殺の真相、他の演説や名言などを、おすすめの本と共に紹介します。, シャネルといえば、みんなが憧れるファッションブランドですよね。では、その創業者であるココ・シャネルについてはどこまで知っているでしょうか。壮絶な生き方をしたファッションデザイナーの生き方を伝える本を、今回はご紹介します。. He was smart, but not smart enough. 柿? 次のうちで、茨城県が収穫量日本一なのは? 公務員採用試験の「外交」や「歴史」で押さえておきたいテーマです。, 公務員総研の編集部です。公務員の方、公務員を目指す方、公務員を応援する方のチカラになれるよう活動してまいります。. この慣例を破ったのが、フランクリン・ルーズヴェルトである。第2次世界大戦中の危機対処を理由に、3選、さらに4選した。 ルーズヴェルトは1945年に病死するが、そうでなければ、5選6選ということもあ … と書いている[10]。, 1954年、ニューヨーク州知事選挙に民主党の公認を受けて出馬しようとしたが、タマニー・ホール指導者カーマイン・デサピオ[11]から強い説得を受けて断念し、ニューヨーク州司法長官の公認候補となった[11]。他の全民主党候補者が当選したにもかかわらず、彼だけが共和党のジェイコブ・ジャヴィッツに敗北した。その後、母エレノアは反タマニー・ホール運動を始め、1961年にはデサピオを辞任させた[11]。, 1960年大統領選挙のウェストバージニア州予備選でジョン・F・ケネディの支援をし、対抗馬ヒューバート・H・ハンフリーが第二次世界大戦中の徴兵を逃れたことを非難した[12]。, ケネディから後に商務次官、アパラチア地域大統領委員会委員長に任命された。商務次官に関しては、ロバート・マクナマラ国防長官が海軍長官就任を拒否したことによるものである[13]。, 1966年のニューヨーク州知事選挙では自由党からニューヨーク州知事に立候補するも、共和党の現職ネルソン・ロックフェラーに敗れた。, 1965年5月26日から1966年5月11日まで雇用機会均等委員会委員長を務めた。, 1973年、兄エリオットが両親についての秘話を綴った "An Untold Story" を刊行すると、家族の先頭に立って非難した[14]。, 小さな牛の牧場を経営し、フィアットの自動車を輸入していた(フィアット会長ジャンニ・アニェッリは個人的な友人であった)。, "JFK and Franklin were friends and their families were close. 【お天気検定】. ・12年間も大統領を務めたにもかかわらず、車椅子姿の写真は2枚だけしか残されていません。, 本記事は、2019年12月19日時点調査または公開された情報です。 の武人」といえば誰? ランキング, 真田幸村の妻と娘は、大坂の陣の後、どうなったのか, 歴史街道/カテゴリー別記事一覧, CATEGORY/カテゴリー別記事一覧, SITE LINK/メディア別トップページ. 朝の情報番組「グッド!モーニング」 -ニュース検定- テレビ朝日系列で放送される朝の情報番... 魚の「キス」、名前の由来は? 朝の情報番組「グッド!モーニング」-ことば検定- テレビ朝日系列で放送される朝の情報番組「グッド!モーニング」... 日本へのスペイン風邪"第1波"はどこから? He may have had the worst attendance record of any member of those days, and it cost him those higher positions." 終戦直後、産児制限の旗振り役となった女性政治家は? 世界恐慌、第二次世界大戦時のアメリカ合衆国第32代大統領。 ニューディール政策を実施。国際連合を創立。. But when Kennedy was killed, Franklin fell from power. フランクリン・ルーズベルト 。 長期にわたり大統領を務めた彼は、第二次世界大戦終結間近で突然その生涯を終えました。 フランクリン・ルーズベルトとは、一体どんな人物だったのでしょうか。 今回はその全体像を簡潔にご紹介していきます。 記事内容の実施は、ご自身の責任のもと、安全性・有用性を考慮の上、ご利用ください。, 公務員総研が主催の、日本で働く「公務員」をテーマにした「川柳」を募集し、世に発信する企画です。, アメリカ合衆国の大統領シリーズ、第31回目は、第32代大統領を務めたフランクリン・ルーズベルトです。フランクリン・ルーズベルトは両足が不自由であり、アメリカ史上唯一、重い身体障害を持った大統領として知られています。 He coasted instead of working at his job, considering it beneath him, while he aimed for higher positions. 現代のアメリカにおいても尊敬の対象とされているフランクリン・ルーズベルトは、1933年から1945年までの12年間にわたってアメリカ第32代大統領を務めた人物です。現在でこそ大統領の任期は最大8年という憲法がありますが、世界恐慌や第二次世界大戦などの有事を理由に4,422日も大統領であり続けました。, 今回は、アメリカ国内ではエイブラハム・リンカーンと並んで最も偉大な大統領のひとりとして絶大な人気を誇る一方で、諸外国からは戦争犯罪人とまで揶揄されたフランクリン・ルーズベルトについて解説します。, フランクリン・ルーズベルトはニューヨーク州の北部にあるハイドパークで生まれました。父親は弁護士や鉄道会社の副社長を務めていたことから非常に裕福な家庭で、曾祖父にあたるアイザック・ルーズベルトはアメリカ合衆国憲法制定会議の一員だったこともあり、幼い頃から政治色が強かったと言われています。, 1700年代、オランダやユダヤ系にルーツを持っていたルーズベルトの家系は、政治的な理由で民主党支持派と共和党支持派に大きく二分されています。その時に民主党派にいたのが、第26代大統領を務めたセオドア・ルーズベルトです。(フランクリン・ルーズベルトは民主党派)政治的な背景の違いはあったものの、セオドア・ルーズベルトは遠縁の従兄という関係でした。, 裕福だったフランクリン・ルーズベルトは幼い頃から家庭教師によって学問を学び、一般社会とは疎遠な生活を送ります。1904年にはハーバード大学、1908年にはコロンビア大学の法律学校に入学しました。同年にはニューヨークのウォール・ストリート法律事務所で仕事を始めています。, 1911年には州議会上院議員として活動を始め、党内派閥争いに勝ち、ニューヨークの民主党で名前をあげました。1913年にはウッドロウ・ウィルソン大統領から海軍次官に任命され、後に大きな影響を与えることになる「海軍びいき」が顕著になります。, 1920年の大統領選では民主党から副大統領候補として選出されますが、ウォレン・ハーディングに大敗を喫するかたちで、政界から引退することを決意します。しかし、ニューヨークで弁護士業を再開した後、ニューヨーク州知事に当選し政界へ復帰。1932年の大統領選では州知事での改革実績が評価されるかたちで選出され、世界恐慌に打つ手なしだったハーバート・フーヴァーを大差で破って大統領に就任します。, 歴史的な大差で勝利したフランクリン・ルーズベルトですが、世界恐慌から抜け出せずにいたアメリカ経済の修復や第二次世界大戦など、アメリカが過去に直面したことがないような大きな課題が待ち受けていたのでした。, 1882年にニューヨークで生まれたフランクリン・ルーズベルトは、典型的な裕福な家庭で生まれ育ちました。一般階級の人たちとの接点がほとんどなかったため、中学生時代に初めて経験した寄宿舎生活では馴染めずに苦労したと言われています。, 1904年にはハーバード大学に進学し、学内新聞の編集長を務めています。父親もそうであったように弁護士を目指すため、1908年にはコロンビア大学の法律学校に進学し、ニューヨーク市内の弁護士事務所で働き始めました。, 1910年には裕福な家庭の出身ということもあり、州議会議員選に民主党から出馬し当選します。1911年から1913年までニューヨーク州の上院議員を務めた後、海軍次官に抜擢されました。この時期には、カリブ諸国や中米への海軍派遣、潜水艦の導入、第一次世界大戦で敵国のドイツに対する戦力導入などを指揮しています。, フランクリン・ルーズベルトは海軍の熱烈的な支持者としても知られており、次官当時から海軍への予算取得のため議会や各国への働きかけをしたり、第一次世界大戦後に解体する予定だった海軍をそのまま維持することに尽力しています。また、ノルウェー近くの北海に機雷を用意すべきと主張するなど過激な側面も持ち合わせていました。, 1919年、海軍兵と一般市民との間で起きた同性愛スキャンダルが問題視され、その責任を取るかたちで海軍次官を辞職。1920年の大統領選に副大統領候補としてオハイオ州知事のジェームズ・コックスと一緒に出馬しますが、共和党候補に大敗にし、政界から身を引いて弁護士に戻ることにしました。, 1921年にはカナダの別荘でポリオを発症し、下半身麻痺の後遺症を負います。車椅子生活を余儀なくされたフランクリン・ルーズベルトですが、車椅子姿を見られることを極度に嫌い、メディアの前では徹底して自身の障害を隠したとされています。, 1928年のニューヨーク州知事選において、フランクリン・ルーズベルトが選出され政界に戻ることになります。後の1934年から1945年までニューヨーク市長を務めることになる、カリスマ市長と呼ばれたフィオレロ・ラガーディアらと改革を進めました。この頃にニューヨーク市は高層ビルが立ち並ぶようになり、人類史上初のメガシティになっています。, 1932年の大統領選では、ニューヨーク州知事としての功績や、現職のハーバート・フーヴァーに失望した世論からの支持を追い風に、40州以上で勝利するという歴史的な圧勝で大統領に就任することになるのでした。, 1932年の大統領選で大勝したフランクリン・ルーズベルトは、経済がどん底にまで落ちていたアメリカ経済の立て直しを迫られます。一向に回復の兆しが見えなかった世界恐慌に対してフランクリン・ルーズベルトは、アメリカ政府が積極的に経済介入する「ニューディール政策(New Deal)」を実行しました。, ニューディール政策では主に、テネシー渓谷開発公社や民間資源保存局、社会保障局などの公共事業や大規模雇用主となる組織を設立しました。大統領就任後わずか100日で政府が経済に介入しない自由主義経済から大きな方向転換を実施したのでした。, 1936年の大統領選でも再選を果たしたフランクリン・ルーズベルトは、第二次ニューディール政策として失業者への手当給付、生活保護よりも雇用をすることで失業者を減らす取り組みを実施します。また、諸外国に対し関税を大幅に引き下げるなどして保護貿易から自由貿易へと舵を切りました。, フランクリン・ルーズベルトによるニューディール政策によって、1929年に始まった世界恐慌は徐々に回復し始め、GDPが1936年に1929年を上回り、失業率は1943年に1929年を下回りました。時を同じくしてフランクリン・ルーズベルトが取り組むことになったのが第二次世界大戦です。, 1939年、ヨーロッパで始まった第二次世界大戦ですが、当初のアメリカは参戦しない姿勢を取っていました。その理由に、1935年に成立した中立法(すべての交戦国に武器の輸出を禁止したもの)、第一次世界大戦の反省的な国民感情、そしてフランクリン・ルーズベルトが先の大統領選の際に戦争はしないと宣言したことが挙げられます。, 1940年9月にはドイツ、イタリア、日本の三国同盟が結成されます。先にフランスを降伏させることに成功していたドイツはイギリスにも侵攻を始めました。一方で、アメリカは勢いづくドイツがイギリスまでも制圧してしまうと、イギリスが戦争負債をアメリカに返済できなくなることを懸念しました。, 負債が焦げ付くことは、世界恐慌から立ち直りつつあったアメリカ経済への影響も大きいため、フランクリン・ルーズベルトは選択を迫られていました。自身の3期目がかかった1940年の大統領選では、日独伊を民主主義と人権の敵とみなし必要なら戦うという姿勢を表明します。結果、国民はフランクリン・ルーズベルトを支持し、再々選を果たしました。, 1941年3月には中立法を改正し、イギリスへの武器輸出を解禁します。8月にはイギリスのチャーチル首相と大西洋上で会談を実施し(大西洋憲章)、事実上アメリカはイギリスと共に参戦することになりました。しかし、イギリスとの間で大西洋憲章が締結されたことだけではアメリカが「実質的な」参戦をする理由には足りませんでした。, 1941年12月7日、日本軍はアメリカの真珠湾を攻撃し、多数のアメリカ軍兵や民間人が犠牲になります。フランクリン・ルーズベルトにとって真珠湾攻撃は国民感情の扇動や、参戦の大義名分となり、アメリカは実質的にも第二次世界大戦に参戦することになったのでした。, ちなみに、日本軍が真珠湾を攻撃した背景として、アメリカ頼みだったエネルギー資源の調達を停止されてしまったことや、同時期に日本が戦っていた中国に対する利権を巡るフランクリン・ルーズベルトの「中国びいき」の姿勢があったことも知っておくといいでしょう。, こうしてフランクリン・ルーズベルトは1941年12月8日、日頃から政治活動の際に巧みに活用していたラジオ演説を通じて、真珠湾攻撃はアメリカにとって最も屈辱の日と表現し、日本に対して宣戦布告を表明しました。このラジオ演説は6,000万人以上が聴き、ラジオ史上最も聴かれた放送だったと言われています。, 無条約、対戦国という関係になった日米において、フランクリン・ルーズベルトは隠すことなく差別主義者(レイシスト)として振る舞い、日本を敵対視しました。その最たる例が「強制収容所」です。妻のエレノアが反対したにもかかわらず、ユダヤ人強制収容所と同様の制度を作り、日系人を収容して財産を差し止めました。また、原子爆弾開発の「マンハッタン計画」を支持し、国家プロジェクトとして承認しました。, フランクリン・ルーズベルトの行き過ぎたまでの敵対視は一部で問題扱いされましたが、ラジオを通じて「真珠湾を忘れるな!」というスローガンを繰り返し、アメリカ国民の感情を扇動して支持を受け続けました。ラジオを通じて国民に語りかけるように演説する様子は「炉辺談話(fireside chats)」と呼ばれ、戦争中も活用されました。, 1944年の大統領においても共和党候補を破り、前例がない4選を果たしたフランクリン・ルーズベルトですが、1945年4月12日に脳卒中で倒れ、そのまま命を落としました。ドイツが降伏する1ヶ月前、日本が降伏する4ヶ月前の出来事でした。, フランクリン・ルーズベルトは世界恐慌の真っ最中に大統領に就任しました。1932年の大統領選では「1年以内にアメリカ経済を1929年以前の水準に戻す」ことを公約にします。就任後すぐにニューディール政策と呼ばれる公共事業の創出に着手して、1933年頃から景気(GDPや失業率)は回復傾向に向かいました。, 一方で、アメリカが世界恐慌から完全に脱却できた直接的な理由はニューディール政策よりも、第二次世界大戦による「軍事特需」が大きかったと見る声もあります。いずれにせよ、1929年に始まり長く続いた世界恐慌から回復したのはフランクリン・ルーズベルトの功績が大きかったとされています。, フランクリン・ルーズベルトはアメリカを第二次世界大戦に参戦させた人物です。当初は中立を貫くはずの立場でしたが、アメリカにとって重要な債務国だったイギリスが劣勢になったことから事態は大きく変わり始めました。イギリスが負けることは避けたかったアメリカは急遽、秘密裏にイギリス首相のチャーチルと大西洋上で接触して武器輸出の支援を約束しました。, さらに、日本からの真珠湾攻撃を受けて世論の支持を得やすい感情的な口実も手に入れたことから、参戦しない理由はなくなりました。フランクリン・ルーズベルトは1937年の時点で、日本が中国に侵略していることや、ドイツがフランスを敵視していることをたとえ話にして、疫病から健康体を守るために「疫病の原因を隔離」するという演説をおこなっています。意味深なこの演説は後に「隔離演説」と名付けられて波紋を呼びました。, フランクリン・ルーズベルトが第二次世界大戦に参戦することを決断した背景には、アメリカ経済への影響、真珠湾攻撃による国民感情の扇動、そして根強かった日本への排他意識があったと言われています。, フランクリン・ルーズベルトは1941年の真珠湾攻撃の翌日、ラジオを通じて日本に対して宣戦布告をしました。大統領職に就く前に海軍次官を務め「海軍びいき」だったフランクリン・ルーズベルトは、個人的にも船が大好きで、世界でも有数の船舶模型コレクターでした。アメリカ海軍に対する愛情は誰よりも深かったとされています。, そんなアメリカ海軍が真珠湾攻撃によって大きな被害を受けたことはフランクリン・ルーズベルトの個人的な怒りを買い、宣戦布告に繋がったと言われています。同時に日本に対する差別的な感情も増し(元々、差別主義者の傾向があった)日系人強制収容所や原子爆弾開発に弾みをもらたしました。, かつて、フランクリン・ルーズベルトが「この人の下で働きたい」と言った、先代の大統領であるハーバート・フーヴァーは、第二次世界大戦後に日本を訪れた際にGHQのマッカーサーに対して「戦争は狂人の欲望だった」とフランクリン・ルーズベルトのことを痛烈に批判しています。, フランクリン・ルーズベルトは前代未聞の4期連続で大統領を務めた人物です。初期は世界恐慌からの回復に尽力し、後期ではアメリカの第二次世界大戦参戦を決定付けました。第二次世界大戦の終末を知ることなくこの世を去りますが、現代でもアメリカでは偉大な大統領として高く評価されています。, 一方で、第一次世界大戦の時と同様に「例外的」理由で戦争に参加したことは、1823年以降続いたモンロー主義(ヨーロッパ諸国との相互不干渉)の存在意義をないがしろにしたという見解もあります。さらに、ドイツ、イタリア、日本の移民を差別する政策や、民間人の無差別虐殺を命じたことなどを理由に、フランクリン・ルーズベルトこそ戦争犯罪人とする声もあります。, アメリカ国内と諸外国では大きく評価が分かれる人物ですが、アメリカの国内問題に限らず国外問題においてもアメリカの大統領が主導的な役割を果たす、近代的な大統領の礎になった人物と言われています。, ・フランクリン・ルーズベルトはセオドア・ルーズベルトの姪と結婚し、結婚式にはセオドア・ルーズベルトが花嫁の父親代わりとして参加しています。