その後、この出来事は「エルトゥールル号の奇跡」として後世に語り継がれるようになったのです。 時は125年前。 1887年、明治天皇の叔父に当たる小松彰仁親王夫婦がトルコを訪問、明治天皇から託された感謝状や贈り物がスルタン(トルコ皇帝)・アブドゥルハミト2世に手渡されました。 このようにして救い出されたトルコ人は、69名に上りました。エルトゥールル号遭難事件は死者500名を超える大惨事でしたが、その中で69名もの命が救われたのは、大島島民の奮闘があったからに他なりません。 95年後、215名の日本人を救助. 不幸にも、その2日後、台風による高波で難破&沈没してしまいました。, 惨事が発覚したのは船員達のうち数名が、近くの灯台下の崖に流れ着いたからです。 エルトゥールル号は、日本の皇族(小松宮彰仁親王・同妃)のイスタンブール訪問に対する返礼と海軍の訓練を兼ねて日本へやってきたのです。 イスタンブールを出たのが前年1889年7月14日。 スエズ運河を通ってイスラム諸国やインド・香港などに立ち寄り、約11 情報 処理 教科書 高度 試験 午前 i ii 2017 年版. なんて苦境を世界に知られるわけにはいきませんでした。, こうして無理に横浜を出航したエルトゥールル号。 エルトゥールル号遭難事件の概要. 昔国語の教科書に載っていたお話 重い荷物. 桐原書店 日本史教科書. 彼らは疲れた体に鞭打って崖を這い登り、灯台守と付近の漁村に助けを求めました。, 台風で漁ができず、食料もわずかしか残っていた村人たちは、非常食や衣類を惜しみなく分け与えました。, 結果、69名の命は救うことができましたが、600人以上いた乗員のうち、582名が溺死となる大惨事となってしまいました。被害者の中には、司令官オスマン・パシャも含まれています。, 助かった船員達は一度神戸の病院に送られ、10月5日に改めて日本海軍の船でイスタンブールに向けて出発し、無事に本国へ帰ることができました。, このとき奇遇にも、後に日露戦争で活躍することになる秋山真之らが同行していたそうです。, 各新聞にも大きく取り上げられ、官民での支援が行われます。 学びスポット. エルトゥールル号遭難事件 については、Wikipediaに掲載されているので引用します(以下、脚注番号は割愛・改行は引用者による)。.

1886年10月24日のイギリス商船・ノルマントン号事件, アレウトは北海道沖で座礁し、ノルマントン号はエルトゥールル号と同じく和歌山県沖での沈没でした。, どちらも直接的な原因は暴風雨によるもの。 露土戦争(ろとせんそう・ロシアとトルコは不仲で、過去に10度以上も戦争をしている)が起き、イスタンブール近郊まで攻め込まれて敗北しており、近代化を急いだ反動で多額の借金があったのです。, そんな状況だったので、かつては地中海を制したほどのオスマン帝国海軍が、

椅子から立ち上がる アニメ教科書. 同時期に日本でコレラが大流行していたため、長旅で疲れていた船員達にもあっという間に感染者が続出してしまったのです。, その回復を待ち、司令官オスマン・パシャは9月15日に出航を決定。 イランから自国民を救い出すために、官民の飛行機が飛び交います。, 救い出すためにはやはり飛行機を飛ばさなくてはいけませんが、自衛隊は海外派遣が禁じられているため動けず。 記事やイラストの無断転載は固くお断りいたします。ご要望の際は、お問い合わせよりご一報下さい。. 例)帰蝶、織田信長, 本サイトはリンク報告不要です。 日本側も当然のように忠告しました。, 「船も損耗しているようだし、その状態で嵐に遭ったらひとたまりもないですよ。台風の時期は避けたほうがいい」 と言っていたとか。, 事件から既に90年以上の時が流れており、当事者達は全て世を去っていたにも関わらず、「国同士の恩」として救助を引き受けてくれたのです。, もちろん、自国民の救助も忘れていません。 2020年の東京オリンピック。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); 検索ボックスにお好みのキーワードを入れて下さい。当サイト内の記事を探せます。 てんくうのしろらぴゅた 教科書 唄. エルトゥールル 号 教科書 ⭐ ベネジクト液 中学教科書.

129年前の1890(明治23)年9月16日、オスマン帝国(一部が現在のトルコ)の軍艦「エルトゥールル号」が和歌山県串本町沖で遭難しました。不幸にして500名を超す人たちが命を落としましたが、地元民の献身的な救護活動によって69名が帰国を果たすことができました。この美談は両国の友好の証として語り継がれていますが、その一人で「NPO法人エルトゥールルが世界を救う」の設立に携わった西廣真治さんに、この実話と学ぶべきことについて語っていただきました。, 使節団を乗せたエルトゥールル号は9月16日夜、台風に煽(あお)られ、怒濤に押し流され、和歌山県潮岬近くに浮かぶ大島の樫野崎の岩礁に座礁、沈没してしまいます。, 乗っていたほぼ全員が海に投げ出され、瞬時に波に呑み込まれたことでしょう。だが、数人が何とか岸に泳ぎ着き、岩にしがみつきました。怪我した体を引きずって必死に断崖をよじ登り、力尽きて倒れてしまいます。, そこにたまたま台風の様子を見回っていた大島の若者が来合わせました。もちろん、彼はエルトゥールル号のことなど何にも知りません。倒れているのは見たこともない異国人。切れ切れに漏らす言葉もさっぱり分かりません。だが、災難に遭って必死に助けを求めていることは確かです。, 救わなければ――とっさに若者の胸を占めたのは、ただただこの一念でした。若者の連絡を受け、多くの島民が駆けつけました。生きている人が他にいるかもしれない。村長の沖周の陣頭指揮で救助が始まります。とは言え、あたりは漆黒の闇。断崖の下からは怒濤逆巻く轟音が噴き上げます。, 文字どおり島民総出の救護が続きます。冷えきった体を乾いた布団や着物を持ち込んで、あるいは人肌で温める。貧しい小村にもかかわらず、非常食として蓄えていたサツマイモ、それに鶏まで持ち出して食事を提供する。数少ない医師も駆けつけて治療に当たる。, このようにして救い出されたトルコ人は、69名に上りました。エルトゥールル号遭難事件は死者500名を超える大惨事でしたが、その中で69名もの命が救われたのは、大島島民の奮闘があったからに他なりません。, 救い出された69名のトルコ人は、翌年1月、全員無事にイスタンブールに帰り着きました。移りゆく時代の中で、地元の和歌山でさえ、エルトゥールル号遭難事件の記憶は薄れていきました。だがトルコの地で、静かに静かに受け継がれていたのです。, 1985(昭和60)年、イラン・イラク戦争の最中、イラクのサダム・フセイン大統領は、48時間後からイラン領空を飛ぶすべての飛行機を撃墜すると宣言しました。この時、この地域から脱出しようとイランの首都テヘランにあるメハラバード空港に215名の日本人が集まっていました。, フセインの声明を受けて、空港から飛び立つ航空機はありません。万策尽きて、テヘラン駐在の日本大使が、かねてから親交のあった日本に駐在しているトルコ大使に電話し、窮状を伝えて相談しました。, トルコ大使の答えは二つ返事でした。「救出はトルコが引き受けます。エルトゥールル号の恩返しです」これはすぐにトルコ本国に伝えられ、トルコ航空の2機が救助に派遣されました。多くのパイロットや乗務員がこの任務を志願したといいます。, 救われた日本人には、なぜトルコが危険を承知で自分たちを助け出したのか、よく分かりません。そのことを聞くと、返ってくる答えは一つでした。「エルトゥールル号の恩返しです」, 紀伊半島の片隅で発揮された真心は恩となってトルコの多くの人々の胸に刻まれ、世代を超えて恩が送られ、95年後に報恩となって現れたのです。, 2010(平成22)年、大阪でJCI(国際青年会議所)の世界会議が開かれました。日本JCでは各県のJCが一つの国を受け持って対応することになっています。(所属していた)和歌山JCが受け持ったのはトルコでした。, その時、私はエルトゥールル号のことは、そういえばそんな話を聞いたことがあるといった程度で、うっすらとしか頭にありませんでした。ところが、出会ったトルコJCのメンバーは口々にエルトゥールル号遭難事件で受けた恩を語り、感謝を述べるのです。, これがきっかけになりました。エルトゥールル号の話をもっともっと広めなくてはならない。その思いに駆られました。私だけではありません。縁に結ばれた人たちが同じ思いで集まり、ついにNPO法人「エルトゥールルが世界を救う」の発足に至ったのです。, 最近、一つの発見がありました。エルトゥールル号遭難事件から間もなくのことです。救助にかかった食料費や医療費を支払いたいという申し出が、日本政府を介して大島に届けられました。, 村長は、ただただ助けたいとの一念でやったことだから、経費の支払いは要らないと答えました。その返書の一部として遭難者の治療に当たった3人の医師がしたためた一文が、カルテとともに見つかったのです。そこには村長が答えたことが簡潔に述べられ、治療費は遭難者の義援金にあててほしい、と書かれています。, まっさらな真心、と思わずにはいられません。その真心が恩を生んだのです。その恩はそれを受けた者の胸に刻まれ、伝えられ、恩に報いる行為となって発現した。知恩報恩の輪の偉大さを思わずにはいられません。このことを少しでも伝え、広めていくのが私の役目だと思いました。, (本記事は『致知』2016年9月号の特集「恩を知り恩に報いる」の記事より一部抜粋したものです。あなたの人生や経営、仕事の糧になる教え、ヒントが見つかる月刊『致知』の詳細・購読はこちら, 西廣真治(にしひろ・しんじ)昭和45年和歌山県生まれ。平成7年同志社大学法学部政治学科卒業後、日興證券(現・SMBC日興証券)入社。大阪、東京、ロンドンなどで活躍し、14年父親が経営する日本料理店「ちひろ」を継ぐ。24年NPO法人「エルトゥールルが世界を救う」設立に携わり、理事に就任。, 菊池雄星、大谷翔平を育てた花巻東高校・佐々木洋監督が語った「何をやってもツイてる人、空回りする人の4つの差」, 11月1日 発行/ 12 月号.

「エルトゥールル号のお礼です」 招致が決まったのはかなり前のことになりますが、そのときライバルだったのがトルコのイスタンブールでした。, もしもトルコに決まっていれば初の快挙でした。 JALに依頼するも、「いやいやいやいや危なすぎるでしょ!死んだらどうすんの!」という労組の反対によって飛行機を出すことができません。, その間にも時間はどんどん過ぎていき、ついに日本からの飛行機が間に合わない時刻になってしまいました……。, と思われたその時、イランの空港で救助を待ちわびていた日本人達の前に、見慣れぬ飛行機が降り立ちます。, 実は、当時の在イラン日本大使が個人的に在イラントルコ大使と親しく、そのツテでトルコ本国に救援を依頼することができたのです。, このときトルコ大使・ビルレル氏は

エルトゥールル号120年慰霊式典その他関連行事の開催について . というかこの申し出を断るしかなかったのです。, 本国から「一度は追加費用出すけど、二回目は無理だから早く帰って来い!!」と厳命されていたのでした。, 遡ること十数年前の1878年。

普通なら大いに悔しがるところでしょう。, しかし同国では、東京開催を祝福ムード。他ならぬ首相のエルドアン氏が安倍首相にハグして祝福したというニュースもありました。, トルコは遠く離れた親日国です。元を辿れば明治時代にキッカケとなる事件がありました。, 明治二十三年(1890年)9月16日、トルコ(当時はオスマン帝国)の軍船が現在の和歌山県串本町沖で遭難しました。 (adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({}); Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2020 All Rights Reserved. わしたちの教科書.