現代の歴史学では、古代フィリピンの全体像すらあやふやです。 その後、ミッドウェー海戦で日本が劣勢に立ちます。 1983年8月21日、フィリピンのマニラ国際空港に着いたアキノ氏の航空機。 アメリカ軍に対し「このあたりに日本兵はもういない」と説き伏せ、砲撃作戦は中止となったのです。, 「高橋大尉」は〈ビガン〉を守った日本人として、フィリピンの人々に伝わっています。 ラプ=ラプ王は戦いの場所を、マクタン島の遠浅の海岸に設定。 ですが、いっときですがたしかにフィリピンは「独立」を果たします。 「戦いを受けてたつ」, ときは1521年4月27日。 1972年、フィリピン全土に戒厳令が敷かれました。 彼らが帰り着いたころには完全なキリシタン禁制が敷かれ、国家体制が完全に変わっていたのです。

Empires and Modern Empires, Basic References on the 20th Century History, June 11 (Tue.) また現地で結婚し、フィリピン人の愛妻や子供ももうけます。 仙台藩がローマへ遣わした〈支倉使節団〉です。 一説には、〈米比戦争〉で殺されたフィリピンの民間人は150万人にものぼると言われています。 フィリピンにとって日本は、最大の援助供与国。 ラプ=ラプ王との決闘によるものとも、純粋に戦闘による戦死とも。 彼は憲兵隊長。 4/9 ガイダンス——「極端な時代」から何を学ぶのか、「長い20世紀」と「短い20世紀」. なぜ?そしてどうして、はるばる1万キロ以上も離れた西洋がフィリピンを目指したのでしょう?, いまだに歴史家たちの間でも謎につつまれた、神秘の分野……それが古代フィリピン史です。 標高1000~1500メートルの山間部に広がる〈棚田〉は壮観の一言です。 坂を利用して段々畑のように作られた、田んぼのことです。 キリスト教は征服者の道具として使われた節はありますが、現在ではその教えと信仰は人々の生活における強い支えとなっています。 1942年にフィリピンは陥落。 両国は経済面でも緊密な関係にあるのです。 この中で生まれた、日本とフィリピンの絆とは?日本の統治下で誕生した、もう一つの共和国とは、どんなものだったのでしょう?, 日本統治下において、フィリピンは「独立」を果たしています。 キリスト教文化、信仰、絵画……実際にフィリピンの方にお会いすると、その強い信仰心におどろきます。 こうすることで原住民を自分たちにしたがわせるのです。 これに対し、征服者はキリスト教を布教していきます。
かの細川ガラシャにキリスト教を教えた人物としても有名です。 フィリピンの歴史(フィリピンのれきし)では、フィリピン共和国の歴史を述べる。フィリピン史は先スペイン期、スペイン植民地時代(1565年-1898年)、アメリカ合衆国植民地時代(1898年-1946年)、独立以後の時代(1946年-現在)に大別される。, カガヤン州ペニャブランカ(英語版)のカヤオ洞窟(英語版)から6万7千年前のアジア最古のホモサピエンス、カヤオ人(英語版)の人骨が出土。[1], パラワン州 のタボン洞穴(英語版)で見つかった約1万6500年前のものと見られるタボン洞窟人(英語版)の人骨と石器、コウモリや小哺乳類の骨などである[2]。人骨は甕棺に納められており、これを中国の風習の影響と見る人もいる[3]:10。, また、リサール州のビナンゴナンでは紀元前3000年前のアンゴノ・ペトログリフ(英語版)が見つかった。これらの遺物を残したのはネグリト人やオーストロネシア人よりも前にフィリピンに住んでいた人によるものと考える人もいる[4]。, これらの住民との関連性は不明だが、これら住民を除けばフィリピンの初期の住民はネグリト人と考えられている。ネグリト人もいつから住んでいたかは不明である[5]。2万年前ぐらいと考える人もいる[6]:31。ネグリト人は従来オーストラロイドと考えられていたが、遺伝子研究によりオーストラロイドの要素を含む新モンゴロイドであるとする説もある[7]:15。, それに続いてオーストロネシア語族の支族マレー・ポリネシア語派が紀元前4000年頃に到来した[8] しかしそれは、文明のきゅうくつさを知らない生活だったに違いありません。

フィリピンもついに独立を勝ち取ります。 ルソン島観光の際には絶対に欠かせ絶景スポットです。, ミンダナオ島の山地に2万6千ヘクタールにも渡って広がる〈ハミギタン山岳地域野生動物保護区〉。 南蛮貿易の活発化によって、多くの日本人が海を越えていきます。 マゼランは、最初にたどり着いたセブ島でキリスト教の布教活動を開始します。 彼はその強力な権力を用いて、フィリピンの経済基盤の強化を進めます。 フィリピン奪還をめざすアメリカ軍は、〈ビガン〉を砲撃する作戦を立てます。, 高橋大尉はこれを受け、地元の司教にこのように懇願します「自分はこの地で結婚し、妻も子供もいるが、愛する家族を残して私たちは敗走していく。 スペイン、アメリカ、日本…しかし今では堂々たる独立国として、アジアの一員です。 彼は反マルコスでありながら非暴力主義をかかげ、その人柄と政策から国民に大人気の政治家でした。 数多くのキリシタンや修道士、神父が、苛烈な拷問のすえに殉教しました。 フィリピンは、東京で行われた〈大東亜会議〉に独立国として参加しました。 一説には、要塞の役割も果たしていたといいます。 なんとこの自然遺産、中に入って船で探検できるツアーもあるんです! 大自然を堪能(たんのう)しつつ、史跡をおとずれるという旅も、おもしろいかもしれませんよ?, 韓国釜山2泊3日のモデルコース。韓国リピーターがおすすめする定番から最新スポットまで, フィリピン共和国。アジアの数ある国々の中でも、実は非常にふしぎな国です。アジアで唯一のキリスト教国。暗闇につつまれている古代フィリピン史。航海士マゼランと戦って勝利した王様の存在……数々の国の利害に振り回されながらも独立を勝ち取り、今ではFTA協定により日本とも強いパートナーシップで結ばれています。フィリピンって、青い海と陽気でおおらかな国民性……というイメージだけと思うなかれ。ふしぎなフィリピンの今昔。あなたものぞいてみませんか?. その後、フィリピンが真の独立を果たすのは太平洋戦争後まで待たなければなりません。, アメリカの統治下となったフィリピンでは、英語が普及。 アメリカが要求したのはフィリピンの領土でした。

アメリカ植民地時代 当時は、フィリピン国内にて独立を目指し運動を起こす人がたくさんいたんです。アメリカはそこに目をつけ、フィリピンに独立の支援を約束し、見返りに戦争の協力をしてくれるように要請するんですね。 ユネスコに登録されている、フィリピンの世界遺産は6つ。 その中でたくましく残った4つの教会は〈フィリピンのバロック様式教会群〉として世界遺産に登録されています。

国際情勢 戒律や教義を守り、よく聖書をたしなむ……というのとはちょっと違います。 それに対し、ラプ=ラプ王はマゼランにこう伝えました。 その後彼の守った〈ビガン歴史都市〉として世界遺産に登録され、現在も残っているのです。, 第二次世界大戦が集結。 フィリピンは1946年から1992年までアメリカの植民地であった。 1992年にはアメリカ軍基地はフィリピンから撤退している。 しかし長年にわたる植民地化でアメリカはフィリピンに大きな影響を及ぼした。 白い肌をした男がフィリピン諸島にたどりつきます。

彼らは苦難のすえに〈遣欧少年使節団〉の少年らと同じく、ローマ法王謁見を果たします。 フィリピンの歴史(フィリピンのれきし)では、フィリピン共和国の歴史を述べる。フィリピン史は先スペイン期、スペイン植民地時代(1565年-1898年)、アメリカ合衆国植民地時代(1898年-1946年)、独立以後の時代(1946年-現在)に大別される。

まれに紛争が起こっても原始的な暮らしをする国の常で、大規模なものには発展しなかったのではないでしょうか。, おそらくはのどかな島の生活を送っていたであろう、フィリピンの沈黙していた歴史が急転回を迎えたのは、西暦1521年3月16日のことです。 便宜上、キリスト教の洗礼を受けていた支倉常長らは帰国後、キリシタンとして幽閉、そして処刑されてしまいます。, その悲劇的な運命は遠藤周作の小説『侍』で、うかがい知ることができます。 アメリカ植民地国家とフィリピン国民の創造141 アメリカ統治ド初のセンサスは,こ のような状況のなかで実施された。それ ではなぜ1903年 にアメリカ統治下初のセンサスが実施されたのであろうか 。 日本も、中国や朝鮮半島以外の世界に目を移します。 日本フィリピンの友好五十周年には〈自由貿易協定=FTA〉も締結。 ついに20年の長きに渡って続いたマルコス政権は崩壊しました。 アメリカはフィリピン奪還作戦を実行。 というよりも「神様が全部なんとかしてくれる」という、良い意味での丸投げ精神。 フィリピンの所得格差は非常に激しいことでも有名です。 〈米比戦争〉以降、事実上アメリカの領土だったフィリピンは、大東亜共栄圏の拡大をはかる日本に狙われます。 こうしてようやく、フィリピンは本当に「独立」を果たしたのです。 ツアーは45分ほどですが、神秘的な体験をすることができます。 鉄でまもられていない足を、銛(もり)で攻撃されて倒れるマゼラン軍。 日本は、アメリカの植民地となっていたフィリピンに対して野心のないことを表明する。 極東の平和は、日本、アメリカ、イギリス3国による事実上の同盟によって守られるべきである。 アメリカは、日本の朝鮮における指導的地位を認める。

〈トゥバタハ岩礁海中公園〉はフィリピンではじめて世界遺産に登録された場所。

しかしこの〈第二共和国〉も、太平洋戦争終盤にアメリカ軍がフィリピンに再侵攻すると、〈第一共和国〉のときと同じく瓦解。 非常に敬虔な信徒だった彼は地元の修道院に大歓迎されますが、過酷な船旅と老齢のため、到着からわずか40日後に病死します。 取りしまりは大名たちとて例外ではありません。 部族の中で家庭をはぐくみ、狩りや漁をして日々の暮らしをつなぎ。 実に長い歳月でした。, 一度は日本の統治下だった、フィリピン。 生息する1380種の野生動物のうち、341種がフィリピンの固有種。 フィリピン人海外出稼ぎ労働者は国家の英雄か、捨て石か? 第2部全3回の第2回目です。 第2部 第1回 国境を越え... フィリピンはなぜ貧しいのか、徹底分析! 「フィリピンでは貧富の差が激しいらしい」、そんな話はよく耳にするのではない... 数回に分けてお届けしている、ドゥテルテ 対 カトリックシリーズ第三弾は、フィリピンと同性愛、そしてドゥテルテ大統領を支え... 今回はフィリピンの歴史を語る上で欠かすことのできない「エンコミンダ制」について紹介する予定でしたが、前回の最後に少しだけ... フィリピンにはわずかな数の富裕層と、国民の大多数を占める貧困層とが存在しており、フィリピンに生まれた富の大半を富裕層が独... 1.フィリピン貧困の連鎖(1/2) 1-1.経済成長のなかに残された貧困 フィリピンといえば、「アジアのなかでも... 前回は、日本に続いて経済大国になるだろと予測されていたフィリピン経済が突然失速し、長期にわたって停滞した理由について、ウ... 前回はフィリピンで進行しているビットコインによる金融革命について紹介しました。その続きとなる今回は、「ビットコインの登場... 麻薬撲滅戦争のあらまし アキノ大統領の任期満了に伴い、次期大統領を決めるための選挙が2016年5月9日に行われまし... 1.ドゥテルテはなぜ、ミンダナオから米軍を追い出そうとしたのか 今回のマウティの戦いについてネットの声を拾っていると、... アジア通貨危機を追いかけるシリーズの3回目(最終回)です。 前回の記事はこちら ▶︎アジア通貨危機... 平日はぎっしり授業が詰まっているセブ島留学。休日はどのように過ごしているのでしょうか。 休日も平日同様に勉強してい... 【海外出稼ぎ労働 第2部 2/3】虐待と差別の狭間で…フィリピン人の中東でのメイドの暮らしぶり, 【ビットコインとは③】ビットコインの仕組み -ブロックチェーン・マイナー・暗号鍵-, 【第一話】フィリピン麻薬撲滅戦争を徹底解説!2016年の死者数とあふれかえる刑務所, フィリピンセブ島留学のデメリット【21選】フィリピン留学の弱み、欠点を隠さずお伝えします. アメリカ軍は積極的にフィリピンを攻撃 6. 高橋大尉はフィリピン、とりわけ〈ビガン〉の街をこよなく愛しました。 マルコス大統領はその独裁体勢を、戦後フィリピンにおいて、20年間敷きました。 しかしこの美しい街が戦争で破壊されないよう、どうかお願いします」司教は約束を守りました。

彼女の政権で成立した人権を尊重した新憲法は大歓迎されます。 といっても、ご記憶の方もずいぶんいらっしゃるかもしれませんね。, 植民地からの独立を果たしついに、誕生した〈フィリピン第三共和国〉。 マゼラン到来の瞬間から、フィリピン苦難の時代がはじまります。
〈米西戦争〉の結果はスペインのボロ負け。 フィリピン国民は激怒、またアメリカもアジアに植民地がほしいという本音がありますから、ここで引き下がるわけにはいきません。 〈米西戦争〉の開始です。 フィリピンは激怒、兵士がアメリカ兵に射殺されたことで米比戦争が勃発 3. フィリピンにアメリカが進出してきたのは、1898年のことである。10年近い戦いの末、アメリカはフィリピンを植民地にする。アメリカにとってフィリピンは、本土からハワイを経由してアジアへと進出する、戦略上の重要拠点だった。 世界一周の任務は彼の部下が引き継ぎました。, ラプ=ラプ王は堂々とした戦いで征服者に立ちむかい、かつ勝利した原住民として今なおフィリピンの人々に愛され、東南アジア史に大きな光を放っています。 「フィリピンでは貧富の差が激しいらしい」、そんな話はよく耳にするのではないでしょうか?, しかし、貧富の差がどれほど大きいのかは、実際に現地に足を運んでみなければ、なかなかわからないものです。, 少なくともフィリピン人の富裕層は、日本人がイメージする大金持ちよりも、度を超えてはるかに裕福です。そして、フィリピンの貧困層は、日本人がイメージする貧乏人よりも、はるかに貧しい生活を送っています。, 富裕層がどれだけ贅沢で夢のような生活を送っているのかについては、個人差もありさまざまです。一方、貧困者のなかでも最下層に位置する人々の暮らしぶりは共通しています。, 彼らは人が住んでいるとは到底思えないようなバラック小屋で生活しています。屋根があればまだましなほうです。ストレートチルドレンと呼ばれる子供たちは、文字通り路上で寝起きしています。, 野外での生活は、冬の寒さが厳しい日本ではできないことですが、フィリピンのように年間を通して温暖な国であれば、どうにか雨風をしのぐことができます。, 食べられるものを口にできるかどうかわからない毎日を、彼らは過ごしています。彼らにとって毎日の大きな目標は、食べられるものを手に入れることです。, そこには贅沢が入り込む隙間はまったくありません。貧困層の家に生まれた子供たちには、オシャレも勉強もゲームも漫画も無縁です。, フィリピンでは高校までが義務教育のため、授業料は国が負担してくれます。しかし、学校へ通うためには制服や文房具をそろえ、食費や交通費を用意しなければいけません。, その日に食べられるものを口にできるかどうかわからない、という暮らしをしている貧困者の家庭に、子供を学校に通わせる余裕などありません。, 貧困層の子供たちは学校へ行く代わりに、幼い頃から働きに出ます。ゴミのなかから換金できる物を探したり、子守のバイトをしたりしながら少しでも日銭を稼ぎ、家族の食費を支えます。, http://www.straitstimes.com/asia/se-asia/philippines-is-still-poor-philippine-daily-inquirer, フィリピンの情報サイトである entrepreneur に、「典型的フィリピン人の純資産はいくら?」と題された記事が掲載されていました。, そこで今回は、この記事を翻訳して紹介するとともに、なぜフィリピンでは貧富の差が激しいのかについて、主にフィリピンの歴史を中心に紹介しましょう。, まずは、entrepreneurの記事を翻訳して、紹介します。わかりやすくするために、多少の加筆をしています。, なお、日本円に換算した際に用いた為替レートは、2017年1月29日時点のものです。, クレディ・スイスのグローバル・ウエルス・データブックによると、2016年のフィリピン人平均純資産は$9,878(1,137,000円)であり、2000年当時の$2,768(318,000円)からは3.6倍となりました。, 成長率だけを見ると素晴らしいかもしれませんが、これが20年かけて起こったということを、はじめに考えておかなければいけません。毎年の成長率に換算すれば、たったの10%にすぎません。しかも、10年も経てば物価も上がっていますが、この数値には物価の上昇は反映されていません。, 実際のところ、アジア太平洋地区諸国や世界各国と比べてみると、フィリピン人の貧しさは依然として抜きんでています。昨年時点でのフィリピン成人1人あたりの平均資産は$9,878(1,137,000円)ですが、アジア太平洋諸国の平均($46,325 = 5,333,000円)の21.3%にすぎず、世界平均の($52,819 = 6,080,000円)と比べると、たったの18.7%です。, 16年前、フィリピン人の平均資産が$2,768(318,000円)だった頃は、アジア太平洋諸国平均や国際平均の10分の1以下であったことを考えれば、たしかに良くはなっています。, しかしながら、手放しで喜ぶわけにはいきません。格差が縮まったのは、アジア太平洋や世界各国で経済が停滞していることから起こる成長率の鈍化によるものだからです。アジア太平洋地区の平均資産の増加率は37%、国際平均は67%です。, 一方、フィリピン人の平均資産は同時期で257%も増加しています。インドネシアなどで導入された、公平な経済成長を促す方針を適用していれば、フィリピンもさらに成長できた可能性があります。実際、インドネシアは2000年から2016年までに331%の成長率を記録しているのです。, さらに、フィリピンにとって問題なのは、平均資産が増加するとともに、不平等さもまた増加していることが見て取れることです。つまり、貧富の差がより広がっている、ということです。これは、フィリピンにとって望ましくない傾向です。, 所有する資産がいかに不平等であるかを計るには、平均資産値と中間資産値の差を見ることが一般的です。, フィリピンの昨年の平均資産値は$9,878(1,137,000円)でした。では、中間値はどうかといえば、たったの$2,055(236,000円)にすぎません。, そこには、79.2%もの開きがあります。実はこの格差は、2008年から年々増加しています。もっとも格差が縮まっても、72.6%に止まっています。, 平均資産値と中間資産値の差は、たった一人、あるいはほんの数人が大きな数字を弾き出すことで、簡単に歪められます。, たとえば、3人の無職の人間がいたとします。毎月収入がないため、もちろん彼らの平均資産値はゼロです。, しかし、たったひとり20万ペソ(462,000円)を稼ぐ人が入るだけで、そのグループ4名の平均値は5万ペソ(115,000円)に跳ね上がるのです。, 実はグループの中間資産値は、ひとりだけ高収入の人間が入ったところで、ゼロのままです。, このあたりは統計学のややこしいところですが、統計学上の中間値は、値の範囲の中間にあるポイントを基にしています。そのため、極端に高い数値、もしくは極端に低い数値の影響を受けません。, こうした仕組みがあるからこそ、平均資産値と中間資産値の差を求めることで、貧富の差がどれだけ大きいのかを、見分けることができるのです。, クレディ・スイスは、世帯の家計とその他の富の分配データから情報を収集して、報告書をまとめています。報告書には200か国以上のデータが含まれており、すべての収入レベルに及んでいます。, 参照元:http://www.entrepreneur.com.ph/news-and-events/how-much-is-the-typical-filipino-s-net-worth-a1672-20170109?ref=home_feed_1, 上記の記事からは、フィリピンにおける貧富の差を読み取ることができます。

ドゥテルテ大統領は大統領になる以前、ダバオ市の市長をしていました。 そのまま生涯、日本の土をふたたび踏むことはありませんでした。 この棚田、道が非常に不安定でせまく、車やバイクはもちろん、水牛やロバなどの動物も通ることが難しい場所。 いずれにせよラプ=ラプ王の亡きあと、フィリピンは大半がキリスト教の洗礼を受けました。 人が航行可能な地下河川としては、世界最長。 不確かな足元、重い金属製の鎧による動きの鈍り。 ちょっとだけ、のぞいてみましょう。, 16世紀、ヨーロッパでは〈バロック様式〉が一大ムーブメント。 スペインはじめさまざまな西洋のエッセンスが入りこんで発展した独特のフィリピン文化。 これをラプ=ラプ王は待っていました。 はたしてマゼランは船で決戦場へとやってきます。 当時は冷戦まっただなか。 大日本帝国の統治下に置かれました。 Decolonization in Southeast and East Asia [The Tokyo Trial], May 21 (Tue.) このうちの一つが、ついに彼を失脚させます。, 40、50代以上の方では、まだ覚えている方もいらっしゃるのではないでしょうか。