1979年で起こったソ連によるアフガニスタン侵攻、このアフガニスタン侵攻はなぜ起こってしまったのか?その原因となった歴史の背景には当時冷戦状態だったアメリカが関係していた?当時の紛争によって起こった現在の内戦や子供たちの問題、その解決策についてご紹介します! 1980年にソ連の首都であるモスクワにてオリンピックが開催される予定でしたが、アメリカのカーター大統領がアフガニスタン侵攻に抗議するためににボイコットを主唱。 【ホンシェルジュ】 19世紀から20世紀初頭にかけておこなわれた「アフガニスタン戦争」と、20世紀後半から現在も続く「アフガニスタン紛争」。この記事では、アフガニスタンを舞台にした2つの戦いについて、原因や目的、経緯、現状などをわかりやすく解説していきます。 ですが、このクーデターに深くかかわった人民民主党は、ソ連の影響を多大に受けた政党だったのです。人民民主党は、共産主義の名のもとに「無神論」を推し進めてきました。, 敬虔深いムスリム(イスラム教徒)の国において、無神論を掲げる政策を打ち出し、強制する政党は受け入れがたいものでした。 アフガン戦争とも。 1978年―1992年の,親ソ連政府と反政府ゲリラの戦争。1978年アフガニスタン人民民主党が軍事クーデタで政権を奪取,親ソ連の社会主義政権を樹立した。 しかし宗教弾圧や急激な改革を断行したため,武装ゲリラによる反政府闘争が開始された。 確かに、アフガニスタンの首相をソ連が決めるっておかしいですよね。ですが、アメリカも人のこと言える立場ではないとツッコミたいです。 そんな危機的状況を打破しようとアミーン首相はソ連へ軍事的援助を要請したのです。, 表向きは、アフガニスタン人民民主党が軍事的援助を求めた結果、ソ連はアフガニスタンに軍事介入したということになっています。 こうしてソ連が1979年の12月にアフガニスタンに侵攻したことで、ソ連は泥沼のアフガニスタン紛争に突っ込んで行くことになるわけです。 アフガニスタン国内だけでなくアラブ世界、その中にはアル・カイーダの指導者となるビンラディンやISの母体組織を作り上げたザルカーウィーからもソ連に対抗するムスリムの戦線が結成されました。 こうしたムスリムの勢力はジハードを実践する者を意味するムジャーヒディーン(聖戦士)と名乗りソ連との聖戦を遂行して逝くのです。 ムジャーヒディーンたちは … アフガニスタン紛争(アフガニスタンふんそう)とは、近代以降のアフガニスタンを舞台に起こったさまざまな戦闘の総称。この項目では1978年以降断続的に起こっている戦いを扱う。 Learn history and connect it to the present, 今から約40年前の1979年12月ソ連がアフガニスタンに侵攻を開始しました。ソ連とアフガニスタンの小競り合いにアメリカなどの他国も加わり、アフガニスタン侵攻は10年にも及びました。 ですが、政策の失敗により国は貧しくなり、国民からの支持はほぼ得られずタラキーは急死してしまいます。, その後、首相の座についたのがアミーン。ですがアミーンもすぐに殺害されてしまうのです。, こうした不安定な情勢と、不満を募らせたイスラム教徒による反政府ゲリラ行為が相まって、アフガニスタンはますます混迷を極めている状態でした。 ・親ソ連だったアミーン首相がアメリカとも外交を持つようになっていたことに危機感をもったソ連指導部が、アミン首相排除するため。, 2つめと3つめの理由は、アフガニスタンはソ連から見ると、国防の要に位置しています。こんなところにアメリカの基地を作られたらひとたまりもないと感じたのでしょうか。 ですが、このことはアメリカなどから「内政干渉ではないか」などの声が聞こえてきます。 ニュースや新聞で世界情勢の話題になったとき、「国際連合」というワードを聞いたことはありませんか?最近でいうと昨年、環境活動家のグレタ・トゥーンベリさんが各国首脳の前でスピーチして話題になりました。中学 ... 1914年から1918年にかけてヨーロッパでは第一次世界大戦が繰り広げられていました。 そしてこの戦争はヨーロッパの体制を根本から崩すこととなり、現在にもつながる影響も残すことになったのです。  今回 ... 世界の政治体制は、それぞれの国によって違っています。同じ民主主義国家でも、国によって大統領制をとっている国、議員内閣制の国と、政治体制の採用が違っているのです。 日本は、御存じの通り、議院内閣制を採用 ... 次回のコメントで使用するためブラウザーに自分の名前、メールアドレス、サイトを保存する。, 歴史は今の生活の糧となることを信じている一大学生。 ムジャーヒディーンとは、「ジハードを実行するもの(聖戦士)」という意味の複数形で、アラブ周辺の国々から集まった義勇軍の名称です。, ムジャーヒディーンらは、イスラム教を否定するソ連やアフガニスタン政府に対して、ジハード(聖戦)を行うという大義名分のもとアフガニスタンに結集しました。ムジャーヒディーンの中にはのちにアルカイダの指導者となるビンラディンも参加しています。, なぜアメリカはムジャーヒディーンたちに軍事的援助をしたのでしょうか。 歴史を学んで世界が見えるような記事を書いていきます。, なんで泥沼の内戦になってしまったの?シリア内戦についてその原因から現在までわかりやすく解説!, カトリックとはどんな宗派?成り立ちやプロテスタントとの違いについてわかりやすく解説!. 犠牲者の数の多さから「ソ連のベトナム戦争」と揶揄されてしまうほどでした。, そしてアフガニスタン関連の軍事費が増大したことでブレジネフ時代にはすでに硬直化した経済の停滞がさらに加速。, アフガニスタン側の被害も深刻です。戦闘員は約9万人死亡し、一般市民は150万人もを死者を出したと言われています。, 戦争により、大部分の成人が死亡してしまい、戦後は国民の半分が14歳以下になってしまうという状況でした。, この戦争の影響は大きく、いまだにアフガニスタンの成長を阻んでいる原因ともなっています。, その後、混乱したアフガニスタンではタリバンが勢力を強めていき、2001年に9.11のテロを起こしました。 1989年2月、ソ連はついにアフガニスタンから軍を撤退させた。ソ連がアフガニスタン紛争に介入してから10年後のことだった。反乱者らとの戦争だったため、従来の意味での勝利がつかまれるはずもなく、紛争には勝者がないままだった。 それは当時、アメリカは先に起きたイラン革命で、イランという中東での強力なパートナーを失いました。ですので、ムジャーヒディーンをサポートし、アフガニスタンを手中に収めようという魂胆があったのだと言われています。, 裏ではアメリカまで加わり、アフガニスタン侵攻はソ連とアメリカの代理戦争とまで言われました。 そして9.11をきっかけにアメリカによってまたアフガニスタンは攻撃されてしまいます。. 国土をいいように利用されたアフガニスタンの国民にとってはかなりの迷惑ですよね。, 1988年2月、ようやくゴルバチョフはアフガニスタンからの撤退開始を表明。同年4月、ジュネーブでアフガニスタン和平協定が結ばれ、ソ連軍は撤退を約束しました。, ソ連のアフガニスタン侵攻は、双方に多大な被害をもたらしました。ソ連軍はおよそ15,000人が死亡し、負傷者はその約5倍にのぼりました。 ですが、条約を結んでいる相手に頼まれたからという理由でソ連がホイホイと軍事介入あうるでしょうか。 ソ連が欧州圏外の国に侵攻し、ソ連拡大主義の新たな侵略的な流れを示唆したのは、これが最初であった。また、アフガニスタンにおけるソ連軍の存在は、この地域の共産主義者や過激派組織を強化する可能性があるという懸念があった。 ・アメリカがアフガニスタンへ進出してくるのを阻むため。 1979年12月にソ連軍がアフガニスタン紛争に介入したことは、時に「ソ連のアフガニスタン侵攻」と表現されるが、実際にはこれは当時ムジャーヒディーン(アフガニスタンで反乱を起こしたイスラム教主義者ら)と戦っていたアフガニスタン政府が何度も軍事支援を要請し、ソ連政府がしぶしぶ同意した結果だった。, 意外にも、ソ連指導部は、国民の大半がイスラム教徒の国で1978年4月にクーデターが起こって親ソのアフガニスタン人民民主党が政権を取ったことをあまり歓迎していなかった。ソ連にとっては、中央アジアのソビエト諸国と、パキスタン、イラン、中国との間に緩衝材となる中立国家があるほうがずっと好ましかったのだ。, だが状況はソ連に現実に順応することを強いた。モスクワは、イスラム教主義者らの襲撃や、アフガニスタンの指導者ハフィーズッラー・アミーンが状況をコントロールできないことに次第に懸念を強めていった。ソ連指導部にとって、アミーンの政治姿勢も不安材料だった。ソ連の敵国と協調する可能性があったからだ。, モスクワは最終的にアミーンの度重なる軍事介入の要請に応える一方で、アミーンを排除する考えだった。1979年12月27日、ソ連軍はアフガニスタンの首都カーブルを完全制圧するため迅速に行動した。特殊部隊がハフィーズッラー・アミーンのいたタジベク宮殿を襲撃した。, 翌12月28日の朝までに作戦は成功裏に終了し、ハフィーズッラー大統領は殺害された。しかし、そこからイスラム主義反乱者らとの血生臭い戦闘が始まり、1989年2月まで10年間続くこととなる。, 冷戦でソ連と対立していた国々は、ソ連の介入を糾弾し、ムジャーヒディーンの支援に回った。米国はムジャーヒディーンに武器を供与した。最も有名なのが地対空ミサイルシステム「スティンガー」で、アフガニスタン領内のソ連空軍にとって一定の脅威となった。, ムジャーヒディーンにスティンガーミサイルが渡ったことが戦局を変えたと考える人もいるが、これで劇的に反ソ連勢力が優位になったという決定的な証拠はない。, 冷戦でソ連と対立していた国々は、当初ソ連のアフガニスタン紛争介入に抗議していたが、実際にはこの状況は彼らにとって好都合だった。米国は自分たちがベトナムで味わった苦汁をソ連が経験していることに満足していた。「我々はロシア人の介入を後押ししたわけではないが、彼らがそうする確率を故意に高めたことは事実だ」と1977年から1981年までジミー・カーター大統領の国家安全保障顧問を務めたズビグネフ・ブレンジンスキーは後に語っている。, 紛争が最も激しかった時でも、アフガニスタンに駐留していたソ連兵の数は10万8800人だった。参考までに、ベトナム戦争のピーク時にベトナムに駐留していた米兵の数は54万3000人だった。とはいえ、アフガニスタン紛争は、米国にとってベトナム戦争がそうであったように、ソ連にとってトラウマとなった。, 紛争介入はソ連を国際的に不利にし、ソ連経済を圧迫した。増え続ける戦死者数に、ソ連国内でも不満が高まっていった。, 1989年2月、ソ連はついにアフガニスタンから軍を撤退させた。ソ連がアフガニスタン紛争に介入してから10年後のことだった。反乱者らとの戦争だったため、従来の意味での勝利がつかまれるはずもなく、紛争には勝者がないままだった。, ソ連軍がアフガニスタンから撤退している。最後の部隊がソ連とアフガニスタンの国境を超えている。, アフガニスタン紛争はソ連軍が撤退しても終わらなかった。それどころか、アフガニスタン国内外での暴力的なジハードが激しさを増し、ついにはイスラム原理主義政治・軍事組織ターリバーンが1990年代後半にアフガニスタンの領土の大半を支配下に収めるに至った。, 2001年10月、ターリバーンを根絶するため米国とその同盟国がアフガニスタンに侵攻し、ごく最近まで同盟を組んでいた敵たちと相対することになった。, このウェブサイトはクッキーを使用している。詳細は こちらを クリックしてください。, アル=カーイダにテロ攻撃を準備できる安全な場を提供したターリバーンを打倒するために米国が2001年10月にアフガニスタンに軍を送る遥か以前、ソ連軍はこの山岳国で恐怖と栄光とを味わっていた。. 日本、西ドイツや韓国といったアメリカと特に関係が深い国や、中華人民共和国やイラン、サウジアラビア、パキスタン、エジプトなどといったアフガニスタンの反ソ連組織に支援している国々ら約60カ国近くがボイコットを決めることとなり、モスクワオリンピックは政治関連で翻弄されることになる最悪の大会となってしまいます。 ソ連とアフガニスタンの小競り合いにアメリカなどの他国も加わり、アフガニスタン侵攻は10年にも及びました。 しかし、なぜ10年にも及ぶ長期化した戦争になってしまったのでしょうか? それは、アメリカがソ連軍と対立する集団(ムジャーヒディーン)に武器や資金を援助したり、軍事訓練などを受けさせて裏からサポートしていたからです。 逆説的に聞こえるだろうが、親ソ派のアフガニスタン人民民主党(PDPA)がクーデターで権力を掌握したとき(1978年の4月革命)、ソ連の指導部はあまり喜ばなかった。 「それ以前は、ソ連外交は、アフガニスタンを中立に保つことを目的としていた」。歴史家ニキータ・メンドコヴィチはこう説明する。 当時、東西冷戦は最高潮に達していた。中立的なアフガニスタンは、ソ連の中央アジアの諸共和国と、敵対する国々、す …