2001年12月22日には暫定政権を発足させたが、その後も不安定な状態が続き現在に至っている。, 誰がなぜ戦争を起こすのか。「9.11」 から「イスラム国」まで その1 アメリカ同時多発テロ, アフガニスタンからパキスタン北部は古くはガンダーラと呼ばれ、ヨーロッパからアジアを結ぶ交易路が中国とインドに分かれる分岐点に当たり、発展してきた。, 1978年4月軍事クーデターが起こり、社会主義政権が誕生しました。新しく指導者となったタラキ革命評議会議長はソビエトに支援を求め、それに応じてソ連は軍事顧問団を送り込みました。, しかし急激な改革はイスラム教徒の反発を招き、各地で反乱がおこります。社会主義の勢力拡大を狙うソ連は1979年12月24日アフガニスタンに武力侵攻を行い、世界各地から集まったイスラム義勇兵(ムジャヒディン)との戦いになりました。共産主義の勢力拡大を恐れたアメリカはムジャヒディンに武器などの支援を続け8年間に及ぶゲリラ戦が繰り広げられました。, オサマ・ビンラディンは、1979年駐アフガニスタン・サウジ王国公式代表としてアフガニスタン国境に近いパキスタンのペシャワールに居を構えアフガンゲリラ諸派と共にムジャヒディンとして戦った。ソビエト軍撤退の1989年までアメリカの中央情報国(CIA)の援助を受け、軍事訓練は
出典/tanakaryusaku.jp 上の地図で分かるようにアフガニスタンはイラク(1979年2月のイラン革命まで親米派のパーレビ国王が支配していた)とパキスタンに挟まれていました。 新しくアフガニスタンの指導者となったタラキ革命評議会議長は、ソビエトに支援を求めソビエト政府はアフガニスタンの社会主義化を進めるため、数100人の顧問団を送り込みました。 社会主義政権の元、地主から土地を取り上げ小作人に分配したり、女性もベールを外し、男性同様学校に通って教育を受けられるようになり …

rakuten_design="slide";rakuten_affiliateId="171212a5.2331de3a.171212a6.cd39a30e";rakuten_items="ctsmatch";rakuten_genreId="0";rakuten_size="468x160";rakuten_target="_blank";rakuten_theme="gray";rakuten_border="off";rakuten_auto_mode="on";rakuten_genre_title="off";rakuten_recommend="on";rakuten_ts="1565921003418"; 9.11アメリカ同時多発テロ事件の首謀者とされたオサマ・ビンラディン率いるアルカイダの引き渡しをタリバン政権が拒んだため、アメリカ合衆国、NATOがアフガニスタンの北部同盟と組んで2001年10月7日から空爆を開始し、11月13日には首都カブールを制圧した。 ( なぜ、ソ連軍が侵攻したのか? ) ① アメリカのアフガニスタン進出を阻止するため ② ソ連領内のイスラム教徒に影響を与えないように するため ( イラン、アフガニスタンで起きたイスラム教徒の

パキスタン軍統合情報局(ISI)とパキスタン陸軍が担当した。, またサウジアラビアを代表する財閥の1族、ビンラディン家や、ファイサル王子が長官を務めるサウジアラビア総合情報庁(GIP)から資金を得て、エジプトやスーダンなどからムジャヒディンを募集し、軍事訓練キャンプに送り込みました。, 1988年8月アフガニスタンでの活動を優先する一派と別れ、新たにビン・ラディンを中心とするアルカイダを創設した。, ソ連軍撤退後の1990年にサウジアラビアに英雄として帰国したが、1990年8月にフセインのイラク軍がクウェートに侵略して湾岸戦争が始まった。この時オサマ・ビンラディンはサウジアラビア国内に異教徒のアメリカ軍が駐留することに強く反対したが受け入れられず、この時から反米感情が一挙に強まった。, 1992年ビンラディンはは秘かにサウジアラビアを脱出し(これにはサウジ家を攻撃し続けるビン・ラディンを、ファハド国王が追放したという説もある。)各地を転々とするようになった。, ソビエト軍の撤退後、大量の兵器を手に入れたムジャヒディンはアフガニスタンの主権をめぐっていくつかの軍閥に別れお互いに軍事衝突を繰り返し、無秩序・無法状態に陥りました。, 軍閥による残虐行為と略奪が続く中、イスラム教に基づき新たに治安と秩序の回復のために立ち上がったのが、イスラム神学校の学生が組織するタリバンでした。, 2001年赤い部分が北部同盟の支配地域。その他はタリバンが支配。出典ウィキペディア, タリバンは親パキスタン寄りの政権確立を願うパキスタン軍統合情報局(ISI)と、アフガニスタンに安定した政権求めるサウジアラビアのサウジアラビア総合情報庁(GIP)の支援を受け、カンダハールを処点として北に軍をすすめ、1996年には首都カーブル、そして北部の主要都市マザーリシャリーフを制圧し、9.11米国同時多発テロ事件のころまでに国土の大部分を支配するようになりました。, 1996年タリバンはオサマ・ビンラディンとアルカイダ幹部を客人としてアフガニスタン滞在を許可した。アフガニスタン滞在を許されたオサマ・ビンラディンはアフガニスタン国内にアルカイダの訓練キャンプを設置し、ここからタンザニアとケニアのアメリカ大使館爆破、アメリカの駆逐艦コールに対する自爆テロを行った。, アメリカはタリバンに対してビン・ラディンとアルカイダ幹部の引き渡しを求めたが、拒否されたためアフガニスタンに対して経済制裁を行った。, 9.11アメリカ同時多発テロ事件の首謀者とされたオサマ・ビンラディン率いるアルカイダの引き渡しをタリバン政権が拒んだため、アメリカ合衆国、NATOがアフガニスタンの北部同盟と組んで2001年10月7日から空爆を開始し、11月14日北部同盟は首都カブールを制圧した。, しかし、タリバンに言わせると、アルカイダに軍事キャンプの設置は認めていたが、9.11のテロ事件に関しては知らなかった。またテロを行った実行犯の大部分はサウジアラビア人でアフガニスタンはだれ一人も加わっていない。それにアルカイダの活動資金は、かってはサウジアラビアとパキスタンから出ていてアフガニスタンは出していないとのことです。, しかし、アメリカにとって実態の分からないテロのネットワークよりは、タリバン政権の方が攻撃しやすいということで、アフガニスタンに侵攻しました。, タリバン政権が直接9.11テロに加わっていないのに攻撃することに反対する意見をかわすため、女性にアフガニスタンの民族衣装ブルカを強制的に着せて女性の人権を無視しているとのキャンペーンを広げ、タリバンに対する反感を広めました。, アフガニスタンに親パキスタン寄りの政権を立てるためタリバンを支援してきたパキスタンも、隣国インドとアメリカを敵にするわけにいかず、アフガン侵攻に賛成しました。, アメリカはタリバンによって北部に追い詰められていた軍閥に資金と武器を与え、北部同盟を結成させ、タリバンに対抗させました。アメリカ軍による強力な空爆の助けと、最新の兵器を備えた北部同盟は瞬く間にタリバンをカンダハールを中心とする南部へ追いやることに成功しました。, しかし、攻撃を急ぐあまりアメリカは戦後の統治戦略を何も考えていませんでした。アメリカは自国が直接統治することを嫌い、国連に調停役を頼みました。, 2001年11月27日、国連はドイツのボン近郊のケーニヒスヴィンターにタリバンに敵対してきた北部同盟を含む4つのグループを集め会議を開きます。しかし、アフガニスタンの人口の半分を占めるタリバンを構成するパシュトゥン人を抜きに国を運営することは、再び内乱を起こすことを恐れた国連は、北部同盟に暫定政府の重要な閣僚のポストを与えることを条件に、暫定政府の議長としてパシュトゥン人のハミード・カルザイを認めさせました。, 12月5日ボン会議は合意に至りましたが、北部同盟の支配する地域では、ビン・ラディンとアルカイダに対する攻撃が行われており、南部では相変わらずタリバンが抵抗を続けてておりカンダハールを支配して、戦争終結には程遠い状態でした。, このままでは北部同盟とタリバンの戦いが長引くと見たカルザイは自身の出身地であるカンダハールに直接出向き、タリバンの指導者オマルと直接交渉しました。, カルザイとオマルは、タリバンが降伏を受け入れカンダハールの主権を暫定政府に委譲する代わり、暫定政府はオマルの生命と尊厳の安全を保障し、カンダハールに住むことを許すとの合意に達しました。, やっとアフガニスタン国内の戦いが終わるめどがついたのです。しかし、アメリカはこの合意に反対して、この合意を破棄させました。, アメリカの言い分は9.11テロを起こしたアルカイダを支援したタリバンも同罪であり、尊厳を保ちながら平和に暮らすことは許されないというものです。, 前にも書きましたが、タリバンはアルカイダの訓練キャンプの設置を認めただけであり、9.11アメリカ同時多発テロにはだれ一人加わっておらず、直接関与もしていません。, 12月7日タリバンはカンダハールを捨て、隣国パキスタンや農村部に逃げ込み、地下に潜伏して活動を続けることになります。, こうしてアメリカはタリバンに対するいかなる交渉も拒否して、延々と続く戦争を選びました。, アメリカは、アルカイダを攻撃する代わりにカンダハールから撤退したタリバン幹部を次々と捕らえグアンタナモ基地などの秘密基地に送り込みました。, 2001年12月22日、ボン合意に基づき元国会議長の息子ハーミド・カルザイを議長とする暫定政権が発足しました。カルザイはかねてからの約束通り、タリバン掃討に貢献した各軍閥に重要なポストを割り当てました。これはタリバンが出現する前の軍閥が武力闘争を繰り返していた時代に逆戻りすることを意味して、不安定な状態は現在も続いています。, 2002年1月アメリカのブッシュ大統領は一般教書演説で9.11アメリカ同時多発テロを起こしたアルカイダではなく、タリバンを負かしたことで勝利宣言を行いました。, これを受け、国連の平和維持部隊やNATOの治安部隊が続々アフガニスタンに到着しますが、後に彼らはアメリカが9.11アメリカ同時多発テロの報復としてアルカイダではなくタリバンを選んだ大きなツケを払わされることになります。, 2004年10月9日、大統領選挙が行われカルザイが55.4%の票を獲得し、12月大統領に就任して、アフガニスタン・イスラム共和国が正式に成立した。, カルザイ政権の閣僚に着いた軍閥たちは、そのポストを自分の一族に分け与え、誰が一番多く政府からゆすり取れるか、誰が一番うまく政府を利用できるかの争いになりました。彼らは新しく発足したアフガニスタン・イスラム共和国を自分たちの戦利品のように考えていました。, 道路・ダムや灌漑用水の整備・病院、学校の建設などアフガニスタンのインフラ整備のため数十億ドルの資金がアフガニスタンに流れ込みました。しかし、これらの資金の大部分は事業を請け負った海外の企業に払い込まれ、残りの部分は政府関係の軍閥のものとなり実際に使われた金額はわずかなものでした。, アフガニスタン国民が期待した新しい政府は、賄賂や汚職がはびこる腐敗した政権となり、アフガニスタンの復興は実施されませんでした。, アフガニスタンを追われたタリバンは、パキスタンのアフガニスタン寄りにあるとライバルエリアと呼ばれるパシュトゥン人の民族自治区に逃げ込み勢力を蓄えていました。この地区はパキスタン政府の力の及ばない場所です。, 2006年春、各地に点在していたタリバンはオマル師を中心に結束を固めアフガニスタンに大規模攻撃を開始し、その勢いは首都カブールに迫りました。急速な治安の悪化に対してアフガニスタンに駐留している多国籍軍は兵の増員を要求しました。, 2007年1月アメリカは、NATO会議において2500人の増派を決定し、イギリスフランスもこれに続きました。, 2009年、新たに就任したオバマ大統領はアフガン重視の政策を取り、アフガン米軍司令官に強硬派のマクリスタル中将を据えました。, マクリスタル司令官はそれまで3万人規模だった米軍を一挙に10万人規模に増やし、タリバンを根絶やしにするため「キャッチ・アンド・キル」作戦を実施し、深夜にタリバンが隠れていると見られる部落を襲い、ゲリラのみならずゲリラを匿っていた住民も殺害しました。, 2011年5月1日、アメリカはビンラディンを殺害したと発表しました。しかし皮肉なことに、この発表でアフガニスタンの国内状態が改善されることはありませんでした。また、アフガニスタンに駐留している多国籍軍は、対テロ作戦が終了したとして2014年をめどに撤退を開始しました。, 映画 「DC911」9.11アメリカ同時多発テロでなぜ、アメリカはアフガニスタンに侵攻したのか。, 誰がなぜ戦争を起こすのか。「9.11」から「イスラム国」まで その3 なぜ、アメリカはアルカイダと関係のないイラクに戦争を仕掛けたのか, DMMに入会すると、希望するタイトル(あらかじめリストに登録しておきます)が2枚づつ封筒に入れて、郵送されてきます。返却は同じ封筒に入れて郵便ポストに投函するだけです。, またこのサイトで扱っている映画のDVDは、店舗に置いていないことが多いため、探したり取り寄せてもらったりする手間を考えると、望む商品を直接自宅に届けてもらえるこのサービスは、大変重宝です。, 今はやりのネットによる動画配信サービスよりも、はるかに多い約44万タイトルのDVDを扱っておりますので、なかなか手に入りにくい映画も見ることが出来ます。, 現在30日間無料体験サービスを行っておりますので、一度試してみることをお勧めいたします。, 西部戦線 1914年 第1時世界大戦開始と同時にフランスに攻め込み、パリから50㌔まで攻め込みました。, tag アフガニスタン、タリバン、オサマ・ビンラディン、アルカイダ、パキスタン、サウジアラビア、オサマ・ビンラディン、, 1918年 百日攻勢(前編) 第2次マルヌ会戦で勝利した連合軍は、ドイツ軍に対して反撃を開始します。, 映画 「ゾラの生涯」無実の罪で流刑に処されたユダヤ人将校ドルフュスの疑惑を晴らすため戦った、小説家エミール・ゾラの話です。, 映画 「ザ・ウェーブ」 大衆が権力に対して、いかに簡単に操られるか、示した映画です。, 映画 「ダンケルク(2017年)」フランスのダンケルク海岸に包囲された40万人のイギリス兵を救出する作戦を、参加した人たちの目から見た映画です。, 映画 「エイプリル・ソルジャーズ  ナチス・北欧大侵略」祖国がすでに降伏したとも知らずに、戦い続けた自転車部隊の若者たち. 【ホンシェルジュ】 19世紀から20世紀初頭にかけておこなわれた「アフガニスタン戦争」と、20世紀後半から現在も続く「アフガニスタン紛争」。この記事では、アフガニスタンを舞台にした2つの戦いについて、原因や目的、経緯、現状などをわかりやすく解説していきます。 逆説的に聞こえるだろうが、親ソ派のアフガニスタン人民民主党(PDPA)がクーデターで権力を掌握したとき(1978年の4月革命)、ソ連の指導部はあまり喜ばなかった。 「それ以前は、ソ連外交は、アフガニスタンを中立に保つことを目的としていた」。歴史家ニキータ・メンドコヴィチはこう説明する。 当時、東西冷戦は最高潮に達していた。中立的なアフガニスタンは、ソ連の中央アジアの諸共和国と、敵対する国々、す …